新世紀エヴァンゲリオンの話
去年リニューアルされた映画版は新世紀ヱヴァンゲリオンと書くらしい。映画公開が発表された当初は観るのを躊躇していたが、公開後、多くのブログでそのクオリティの高さが評価されていたのをきっかけに、結局ひとりで旭川のディオスで観たのだった。最近はひとりで映画を観るのがつまらなくなった。
テレビ版エヴァンゲリオンが放映されてから今年でもう13年も経ったのか? にわかに信じられない話だ(自分の30代の記憶が曖昧なところに加え、エヴァを観た記憶が古びていないせいで、時間感覚が狂いそうだ)。もしそうなら、碇シンジが生きていたら彼は27歳になっていることになる。27歳の碇シンジはアスカの裸体の前で自涜した14歳の自分をどう考えているだろう。もう許してやることが出来ただろうか。許してやらないと、ちょっと生きるのが辛いだろう。
いや、仕切り直しとして作られた映画版『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版 THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に』*1において、シンジはアスカとふたり、レイとともに一体化した人類に取り残されたアダムとイブになってしまったのだ。
映像の世界は歳をとらない。けれども映像を観ているこちら側は歳を重ねていく。もし14歳のアダムとイブとなったふたりがあの荒涼とした世界で、僕らと同じように年を重ねていったとして、ふたりは27歳の誕生日を迎えることが出来ただろうか。それはちょっと、心もとない。
アスカとレイ、どちらを選べと云われれば確実に僕はレイを選ぶだろう。それはまあ彼女がわりに物静かだという理由もあるのだが、大きな理由はやはり同情によるものである。僕は彼女が可哀想で仕方がなかった*2。それはきっと、彼女が自分自身を愛せていないのが、痛いほど伝わって来たからだ。こういうの心の動きを身の程知らずという、僕は昔からそういう女性にちょっと弱いのだ。それはまたもしかしたら、そういった女性の中に自分自身を見出しているせいかも知れないが、それはとりあえず「わからない」としておこう。まだ先は長い。