日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

シン・仮面ライダー 最速上映を見終えた翌日の印象

ネタバレはないと思う。「それネタバレじゃん!」と読後思われたなら「申し訳ない!」と最初に書いておく。

庵野秀明監督とのつきあいは、TV版エヴァンゲリオンが最初である。当時こちらでは放送されておらず、職場の知人が貸してくれたビデオテープで観た。
以降、エヴァの旧劇場版はたぶん円盤で、新劇場版はすべて劇場で観てきた。
庵野監督作品はそれなりに観ているがただのファンである。アニメ作品はエヴァは観てても「ふしぎの海のナディア」「彼氏彼女の事情」はまったく観ていないし「トップをねらえ」は劇場版しか観ていない。実写作品は「キューティーハニー」しか観ていない(「キューティーハニー」は好きだった)。その程度のファンである。

こちらの劇場(イオンシネマ北見)でもシン・仮面ライダーの最速上映・舞台挨拶中継があるのを知り、少し迷ってから、物見遊山の気持ちで足を運んだ。当地にどれほどの仮面ライダーおたく、庵野信者などなどの濃い人達がいるのか、客席の様子を見たかったのだ。
当夜の観客数は五十人弱ほどではないかと思う。劇場に足を踏み入れたときに、なんとなく、五十代ほどの男性客が目についた。私同様、テレビの仮面ライダーを見ている世代だ。ほぼ一人で観に来ている印象を受けたが、もちろん年若い観客もいたし、カップルや一人で観に来ている女性もいた。
はじめて映画初公開の舞台挨拶というのを観たが、なんであんなくだらない質問ばかりするのだろう。とはいえこれはシン・仮面ライダーの問題ではなくて、舞台挨拶そもそもの話なんだろう。こちとらガキじゃねぇんだ、という気分にはなった。


シン・ゴジラ、シン・ウルトラマン、どちらも追いかけて見てきた。
シン・ゴジラはいたく気に入って、劇場で四回ほど観たし、後に Blu-ray も買った。配信でも円盤でも、今でも時折観ている。観出すと結局最後まで観てしまうのが、困ったところだ。
シン・ウルトラマンも楽しく観た。ただ円盤を買うほどではなかったし、劇場でも一度しか観ていない。アマゾン・プライムで一度観たかも知れない。
そしてシン・仮面ライダー

観る前に感じていたのは「体技をどう見せてくれるだろう」という期待・不安だった。
前二作品は人間の大きさを超えた存在が主役だったが、仮面ライダーは等身大のヒーローである。しかも仮面ライダー一号、二号を取り上げるのだから、前二作品のようなコンピューターグラフィックによる映像処理がメインだと、平成ライダー以降の作品との違いが出ない。やはり出演する役者、生身の肉体による体技・演技が主軸だろう。生身の肉体の役者の演技を、どう映像で見せてくれるのか。私が観る上でのポイントはそこだった。
思えば用意周到だった。
冒頭、はじめて仮面ライダー一号がショッカーと戦う戦闘シーンが出てくるが、ここが何しろPG13である。仮面ライダーがショッカーをライダーキック、ライダーパンチなどで倒していく森の中でのシーンは「殺戮」と呼ぶのがふさわしい、血まみれな映像の連続である。冒頭にこれはなかなかにキツい。
この強烈な印象を植え付けられた後に仮面ライダーと怪人との戦闘シーンを観るから、両者の演ずる普通の体技・演技をブーストされて観ることになる。もちろん要所要所には効果的にCGを使っているから、これまた体技・演技がブーストされる。ライダーキックのシーンなんかもう、格好良くて笑ってしまった。満足している。

庵野監督作品といえば、その映像の美しさ、構図・レイアウトの見事さといえるだろう。
押井守が確か自作「アヴァロン」を発表した頃に、CGを多用することになった現在において実写もアニメも違いはなくなった、ようは「絵」なんだ、と言っていた。
映像作品は基本的に、役者の演技以上に「絵として映えるか」が重要だが、その意味で庵野監督作品は見応えのある「絵」を作り続けてきた。
しかし今回のシン・仮面ライダーは、映像の美しさはもちろん、役者の演技を堪能する作品でもあった。それは前二作を遥かに超えている。
今回のシン・仮面ライダーの物語のメインは、仮面ライダー一号・本郷猛(池松壮亮)と、本郷猛を改造した緑川博士の娘である緑川ルリ子(浜辺美波)、そして仮面ライダー二号・一文字隼人(柄本佑)の三人である。この三人の演技が大変に良かった。役者の演技を見たなー、という気持ちになった。
特に柄本佑の演技が印象深い。仮面ライダー二号が洗脳されている時、洗脳を解かれた時、洗脳を解かれた以降、それぞれの違いが演技によって表現されていると感じた。それぞれに何らかの映像処理をしているんじゃないか、と思われるぐらい、洗脳を説かれる前と後の変化が、演技によって表現されていた。
もちろん池松壮亮浜辺美波の演技も印象深い。この映画は、ショッカーとの戦闘を繰り返す中で、本郷猛と緑川ルリ子が成長していくのを描いている物語だったと思うのだが、緑川ルリ子が本郷猛に心を開いていく変化や、冒頭の弱々しい少年のような本郷猛の表情が、段々とヒーローらしい強さを秘めた表情に変化していくのを、楽しむことが出来た。満足している。


今の視点で、仮面ライダーなどの「特撮」を見ると、その「ちゃっちさ」が目につくだろう。あーリアルに見せたいのにこうなってしまうか、しょうがないよね技術も予算もないし、どうしようもないよね時代だもん、といういたたまれないチープ感。
けれども、子どもの頃リアルタイムで見た時の強い印象や感動、友達と仮面ライダーごっこをやるほどには好きだった、その感情を否定することは出来ない。
だから時を経て大人になり、現在の視点で見返すと、過去と現在、その否定できない両方の感情がないまぜになり、いつか「ああ頑張ってたんだなー」という感情を生み出す。
その感情が“「特撮」を「特撮」として見る”という「作法」になっている気がする。

今回の仮面ライダーや怪人たちはみな、実際に演技する役者(もしかしたらスーツアクターも含むだろう)が衣装を着て、演技に臨んでいる。なので「ああこれは衣装だなー、着ぐるみだなー」という印象をビシバシと感じることになる。ショッカーの基地、怪人たちの基地(と呼ぶのかどうか)の内部といった、役者が演じている場所も、CGではなく実際に装置を組んで作っていると思われる。
アニメやCGのように、映像のみの存在はしていないものと違って、物や人という存在には存在自体の体積があり、時間の体積がある。「この装置は実際にあったんだね」「確かにある時、ある場所で、実際に人が演技してこの映像を作ったんだね」「ああ、人が生きていたんだね」という感情に包まれて、愛おしい気持ちになる。
この、生きている人たち、存在した物たちに対して愛おしい気持ちになることが、もしかしたら「特撮」を見ることから生まれる感動じゃないのか、と思っている。
それほどこの手の、いわゆる「特撮」には詳しくないのだが、この感情、この感動は「特撮」にしかないものじゃないか、というのが見終わった後の印象の大きな中心にある。

まとまりきれていないが、今はここまでにしておこうと思う。何もなければ明日また観にいくつもりなので、また受け取るものがあるかも知れない。
最後にひとつだけ書くと、いつか庵野秀明は「世界の不条理」と対峙するのではないか、という気がしている。なぜ「私」がこんな不幸を受けるのか、他の誰でもないこの「私」がこんな絶望を背負い込むのか、という不条理。
とりあえず明日観に行くことと円盤を買うだろうことは決まっている。