日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

面白いな、こういうのって

「白鳥のめがね」という現代演劇の劇評を書かれているサイトがあって、そこに「唐十郎『盲導犬』から帰る/日本近代演劇史を描きなおすために+」というエントリーが記載されていた。唐十郎の芝居を観るのは道産子現北海道在住者にはかなり困難なのだが、幸運にもはるか昔、石橋蓮司主宰の劇団第七病棟による「ビニールの城」を、今はなき札幌市民会館で観たことがある。テレビではNHK教育で下北沢本多劇場こけら落とし公演「秘密の花園」を食い入るようにして観た。そういえばあの時出演していた緑魔子も劇団第七病棟の女優である。
そういう好印象から久しぶりに当該エントリーを読んだのだが、面白かった。例えばこんな一文

ノローグのこと
ああ全部モノローグなんだな。と思った。対話の形をとっていようと、場面を断ち切るように、詩的なことばが声を合わせた叫びとして客席に唐突に繰り返し投げかけられようが、全部、唐十郎が書いたモノローグであり、唐十郎のイマジネーションであり、モノローグを運動させるためのスペクタクルなのだ。

日本の戯曲の多くは分割されたモノローグの連続なのではないかと最近疑ってきたのだが、唐十郎は明白にモノローグの劇作家なのだろう。他の作品を全て見ているわけではないけど。

そして、その詩的なモノローグは、いわゆる二物衝撃に近いような、飛躍のあるイメージを重ね合わせるという手法で綴られる。そういうイメージの重ね合わせの運動を、「前衛的」と呼ぶのは間違いで、むしろ、たとえば俳諧であるとか、日本において伝統的に積み重ねられてきた美学の展開として考えてみるべきだったのだろう。江戸時代に役者が田舎をどさまわりしたときの芝居というのが、唐組の舞台に転生しているんじゃないかという風な空想におそわれる。

脚注は省いた。「江戸時代に役者がどさまわりしたときの芝居というのが、唐組の舞台に転生しているんじゃないかという風な空想におそわれる」というあたりに、今の若いひとたちと唐十郎、もしくは“唐的”ともいうべきアングラ演劇との距離感、違和感が感じられて面白い。
ここで紹介されている「二物衝撃」というのがどういうものか、このサイトで味わうことが出来る。短歌である。例えば

  • 憂鬱なねじの陰から影踏みはいつもの泡を飛び越えてゆけ
  • きえてゆく道のリズムでともしびは微量の罠に恋をしている
  • 目薬を怖がる妹のためにプラネタリウムに放て鳥たち
  • 永遠は積み木遊びの母を見た 奇妙な沼をあきらめてお茶
  • まなざしに隠れた赤い結晶をじっと見ていた 退屈な蝶

これらの短歌の内の一首が現代歌人穂村弘の作、残りはすべてジャバ・スクリプトによって自動生成された「短歌」である。歌人の名は星野しずるという。どれが穂村弘のものかわかるだろうか。前情報がなかったら俺にはまずわからないだろう。答はこのブログのいずこかに書かれているのだが探索はお薦めしない。
星野しずるの最新作を知りたいあなたは星野しずるの犬猿短歌へ行っていただきたい。あなたのために彼女は、あなたの命ずるままに何十何百もの短歌を吐き続けるだろう。


 星野しずるの短歌をたくさん読んでいくと、何首かに一首、はっとさせられる短歌を見つけることができると思います。人間ではつくれないような新鮮な暗喩をつかったり、時には逆に、まるで人間がつくったかのような深淵な意味が読み取れてしまう短歌も出てきます。まずはそのおもしろさを楽しんでほしいですね。その上で、人間の持つ「理解しようとしてしまう力」の潜在的な高さについて驚いたり、読み手依存型の創作の怖さに気づいたり、創造性がほんとうに発揮されねばならない場所とはどこなのか再考したりしていただければ幸いです。(「犬猿短歌Q&A」より)