日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

この前の続き、エヴァのこと

LCL

すでに惹き込まれてしまった物語の、その世界観が自分の考えと大きく異なると気づいても、もう引き返せないところまで心は奪われていた。もちろん自らの考えと異なるからといって、その作品が評価に値しないと判断するのは間違えているのだが。
「私が死んでも、代りはいるもの」
自分が誰にとっても、自分自身にとっても、自らをとりまく世界に対しても何の意味もない、役に立たない者なのだと思う時、誰しもそう胸の内でつぶやいたり、ため息のように口にする事はある。しかし冷静な、というより平坦な、といった方がいいレイの声が告げるその言葉は絶望によるものではない。新世紀エヴァンゲリオンという物語にあっては、この言葉は端的に科学的な事実として存在している、のである。
溶液の中に浮かぶ肉体だけの綾波レイ。魚のように、厚い硝子の向こう側の存在に大きく目を瞠る裸体たち。Wikipediaの『綾波レイ』の項には「真相」と題された章に次のように記されている。

綾波レイは初号機に取り込まれた碇ユイをサルベージする過程で偶発的に生まれた存在であると考えられている。その魂は第2使徒リリスの一部であり、肉体はユイのコピー(クローン体)的なものである。魂は一つしか存在しないがその「イレモノ」である肉体は多数存在するため(魂の宿っていないイレモノは、パイロット無しでエヴァンゲリオンを起動するための「ダミーシステム」のコアとして活用されている)、何らかの原因でレイが死を迎えた場合、魂を新しいイレモノに移し変えることで復活する。ただし、前の肉体で得た記憶はほとんど引き継がれない。


作品中には3人のレイが存在する。1人目のレイはNERVがゲヒルンから改名する以前、赤木ナオコに対してゲンドウの陰口をそのまま本人に伝え、激昂した彼女によって絞殺されている(漫画版ではこの事件とナオコの死の詳細が描かれた)。シンジが初めて出会ったのは2人目のレイであり、23話においてレイが自爆した後に登場したのが3人目となる。

三人目のレイに至る経過の真偽はともかく、左様に新世紀エヴァンゲリオンの世界においては、魂と肉体は完全に区分されえる、それぞれが個別具体的に取り扱える物理的存在として登場する(そうでなければ魂を肉体に入れることが出来ない)。僕は、こういった考え方・世界観が「ヤ」なのである。
心身問題の二元論などという無駄に高尚な引用に傾きそうな文章をひとまず句点で堰き止めて、話をもっと卑近な物言いで書き続けていくと、ここに登場した世界観とは謂わば「中二病」のそれである。折しもシンジたちセカンド・チルドレンは皆14歳、年齢的には中二病まっさかりの青二才が世界の命運を担う訳なのだが……いま何だかエヴァの真実を突いてしまった気がした。Wikipediaより「中二病」の項。

その「症状」は、大きく捉えれば若者が思春期の成長過程に直面し大人になろうとして、大人が好みそうな「格好いいもの」に興味を持ち、子供に好かれるようなもの、幼少の頃に好きだった幼稚なものを無意識に全否定する傾向にあると言う。もちろん意識的に行う場合もあるが、その反面、「格好の悪い大人」、「イヤな大人」と彼らが考える部分も同時に否定するなど、往々にして判断基準が曖昧で、実際の大人から見ると非常に「ズレて」おり、滑稽に見えることも大きな特徴である。


さらに、生死や宇宙、自分や他人・身近な物体の存在に関することなどについて思い悩んでみたり、政治や社会の汚さを批判してみたり、さらにワルぶってみせたりするものの、結局何も行動を起こさないでそのまま収束するといった性質も、「中二病」の「症状」といえる。


基本的に中二病は、第二次性徴期における自我の発達が行き過ぎたものでしかない。「他人とは違う自分」「もう子供ではない自分」「汚い大人ではない自分」を他者に対し強調する自意識過剰からくるものであり、個性的どころかよくある、誰でも通る道に過ぎない。自分の中にある「中二病」的要素を告白し、それを自虐ネタにしつつ仲間と朗らかに笑い合うのがこの言葉のもともとの使用法である。あたかも実際の病のように治療が必要だと考えたり、中二病だと人に思われることを怖れて萎縮したり、人の言動を中二病だと批判して改善を求めたりする一連の行為は、むしろ俎上にあがっている中二病の要素以上に自意識過剰な傾向を顕著に示すものである。

さすがに40を過ぎると中二病中二病として淡々と理解し、謂わば病を友として生きるだろうという諦念も身につけつつある。
ところで「君」はいつ登場するのだろう? まだ会う事は叶わない。