日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

まだ終らない新世紀エヴァンゲリオンのこと

「魂」を定義するのは難しい。例えばwikipediaは魂(ここではもっと広く「霊魂」として紹介している)を次のように紹介している。

霊魂(れいこん)とは、一般に生物、特に人間が生きている間はその体内にあって、生命の源や精神そのものとされる、人や生物の死生観の根源的な解釈のための概念の一つ。魂(たましい)ともいう。


生物について、その肉体以外の部分を言い表す概念であり、また、肉体・精神とともに生命の三要素のうちの一つとされる。心と同一視される事もある。死ぬと肉体から離れて「あの世」(死後の世界、霊界)へ行ったり、「この世」(生者の世界、現世)に影響を及ぼしたりすると考える文化・思想も存在する。あの世に還った霊魂が、再びこの世に生まれ変わるという考えが、輪廻転生(転生輪廻)の思想である。


霊(れい、たま)もほぼ同一の概念だが、現代では死者の霊のことを指す場合が多い。また、そこに何かいると感じられるが、実体としては捉えられない現象や存在(聖霊など)のことを指すこともある。


一方、大和言葉の魂(たましい)の方は、信念や思想、あるいはその心を表現する言葉としても慣用的に使われる。

まだ少し迂遠して話を進めたい。ここでどうしても、僕自身の「魂」観を稚拙でも書いておかなくてはならない。
wikipediaでの紹介からも読み取れるように、魂という言葉には「命」と「精神」の両者が混合しているところがある。
僕自身の理解でいえば、魂とは「生きられた時間」となる。それは記憶と云ってもいいかも知れない。
僕たちが自分自身を理解しようと努める時、その参照となるのは自分が憶えている・思い出せる記憶である。参照される度に更新される記憶、ここまで生きてきたという記憶なしに自分を自分として理解するのは難しいし、その記憶があるからこそ自分を自分だと確定することが可能となる。
もちろん誰もが生きたくて生きてきた訳でもないだろう。それでも自殺しない限り、人は命の命ずるままに、その肉体の続く限り時を刻んでいく。そのようにして生きられた時間の堆積が「魂」を形成していくと僕は考えている。人はだから命に対しては「生きてきた」ではなく「生きられた」「生かされた」と記されなくてはならない存在なのだと思う。
では肉体は魂の乗物、イレモノに過ぎないのだろうか。確か生物学か何かで「肉体はDNAの乗物=ヴィーグルに過ぎない」という言葉があったはずだが。
たぶん、自分を自分として理解するために肉体はなくてはならない存在である。ここいらへんは僕の考え方が古いのかも知れない。