日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

「レコード演奏家」への違和感

新レコード演奏家論 (SS選書)

新レコード演奏家論 (SS選書)

オーディオファイルを「レコード演奏家」と呼ぶ、その考え方にまず違和感がある。
「レコード音楽とオーディオの素晴らしい世界を讚え、それを愛し、日夜、真摯に音楽的感動を求めて追求されている方々に対し、この拙文と『レコード演奏家』という敬称を捧げたい」(「新レコード演奏家論」24ページ)
基本的な考え方をいえば「聴く」という行為は受動的なものである。圧倒的な音の感動に身を浸すこと、全身全霊を音にまかせること、それが「聴く」ということだ。その受動的な悦びを得るために、オーディオファイルはオーディオに没頭する。
その行為を否定する気は毛頭ない、ただそういったオーディオファイルを「レコード演奏家」と持ち上げる=敬称で呼ぶことによって、音楽→レコードを「聴く」という受動的行為がもたらす圧倒的快楽、その快楽に身をまかせている自分が失念されている事に対しての違和感なのだ。
「耳」は人間の体の中でも一番「受動的」な器官である(「鼻」もそうだが)。人は自らの意志で音を選択して聴く事ができない。鳴らされた音に対して人は取捨選択できない。苦い瓜を吐き出すように、今聴いた音を耳から出す事も出来ない。鳴らされた音を微細に聞き分けることは出来ても、ある特定の音だけを耳に入れないという事が出来ない。
そして素晴らしい音楽には常に「音を微細に聞き分ける」といった能動的な「聴く」態度を忘れさせる魔力がある。その魔力を増幅するのがオーディオなのである。
忘我の状態を演出する行為がいくら能動的であってもたどりつく先は圧倒的な受動的快楽である。しかも、その音楽=レコードを演奏する側も聴く側も自分ひとりである。AVマニアが数百万のサラウンドシステムを構築してアダルトビデオの映像に身を浸すのと実は構造は何も変わらない。


それが芸術であろうが何であろうが、われわれは音に、音楽に魅了されたいのだ。我を忘れたいのだ。その受動的快楽を「レコード演奏家」という敬称は忘れさせるのではないか。


香水を調合する「調香師」のことを、フランス語ではパフューマー"perfumer"と呼ぶ。それなら「調楽士」とでも呼んでみようか。


追記(2006年10月23日)
wikipedia「レコード演奏家」の項目があるので参照されたい。