日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

豊かさとは何か、または頭が良くてもお金があっても

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 昭和52年、1977年のこと。小学6年生の、出来たばかりの学校の教室の後ろの壁に、それだけは古い学校でも貼られていた日本史年表を見た時に思ったことを、今でも俺は思い出すことがある。それは「終戦から32年しか経ってないんだ…」という驚きである。
 家族が共働きだったこともあって、自分が貧しいと思ったことは当時一度もなかったけれど、だからといって周囲が貧乏だと思ったこともなかった。それこそ一億総中流意識の中、1977年の日本は十分に豊かだった。
 最近もそのひとこと多いところで話題になったアニメ監督の押井守が、自らの作品にたびたび「あの決定的な敗戦から○○年」と書くように、文字通り満身創痍で国土の多くを灰塵に帰した大東亜戦争の決定的な敗北から、たった30年足らずで豊かさを手に入れているのか……その「時の短さ」は、小学6年生のガキんちょにも驚きだった。さすがは当時の金曜夜八時を全日本プロレスでも「太陽に吠えろ!」でもなくNHK特集を見る家庭の子どもは感性が違う、とタイムマシンがあったら今すぐその当時の金曜夜八時に戻ってチャンネルを全日本プロレスか「太陽に吠えろ!」に変えてやる。
 だから小学6年生の俺は驚きながら「日本ってすごいんだな」と誇らしくも思ったし、その一方で「にしても短すぎないか?」と不安にも思った。いやこれは後から思い出につぎ足した感想かも知れないが。
 そうして、たとえばこういう前近代的な発言が登場するたびに*1、しかもその発言がある程度の“力”を持ちえている我が国のありようを知るたびに、この手にした豊かさとは何だろうと思ってしまう。
 俺にとっての豊かさとは「個人が行使出来る自由の幅広さ」だと思うのだが、幕藩体制から開国、脱亜入欧に舵を切った近代日本は、ただただ列強に対抗するのに精一杯で「近代化の中心に個人がある」という考え方などどうでも良かったのかも知れない。小林信彦は我が国の「豊かさ」を評して「たかがスパゲティの種類が増えただけ」と喝破した。可哀想な日本(これは反語でも嫌みでもない)。
 ドイツ人で安泰寺住職:ネルケ無方は著書『ただ坐る 生きる自信が湧く 一日15分坐禅 (光文社新書)』に、個人主義についてこう記している(42p)。

 西洋には、古くから個人主義という考え方があります。しかし、日本で考えられている個人主義とは中身が違います。西洋では自分と他人をはっきりと分け、自己を主張しながら、相手の主張も認めるという姿勢を取ります。フランスの啓蒙思想家、ヴォルテールの「私はあなたの意見に反対だが、あなたがそれを言う自由は命をかけて守る」という有名なテーゼにも、それがよく表れています。そこでは、「私」と「あなた」と「彼・彼女」というあらゆる主体が横に並んで、それぞれの世界が平等に存在しています。

 いつもいつも思うのだが、日本の近代化の主体は「個人」ではなく、例えれば「和」ということになるのだろう。その中にいる人にとっては暖く融通が利き、その外側に対しては驚くほど排他的で、しかも中にいる人はこれっぽっちも排他的だと思っていない「和」の世界。

*1:片山氏の発言についての的確な評として『脱社畜ブログ』の「片山さつき(と自民党)は日本全体をブラック企業に変えるつもりなのか」「『権利行使には義務が伴う』というフレーズに対するよくある誤解」を参照して下さい。「次の選挙は、どこに入れればいいんだろうか。正直、詰んだというのが僕の心境である」という言葉が我が事のようである。