日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

映画音楽をクラシック作品のように聞く、ということ

 わたしがオーディオ雑誌を読む時に愉しみにしているオーディオ評論家が二人いて、そのひとりはここでも何度か紹介している和田博巳さん。わたしが今もせっせとお布施しているオーディオ雑誌「季刊Stereo Sound」「季刊Beat Sound」そして「季刊AUDIO BASIC」の三誌にはどれも寄稿していて、聴く音楽の幅広さと、それを可能にする受け入れる音楽ジャンルの間口の広さ、何より音楽とオーディオをともに愛してやまない姿勢が文章に現れていて、読んでいてとても楽しい。実際の和田さんは文章から受ける印象よりちょっとだけ厳しさが伺えるのだがそれはさておき、和田さんと同じくこの三誌に寄稿しているもう一人の評論家が嶋護さんである。この方をオーディオ評論家というのはやや異なるのかも知れない。嶋さんの守備範囲はLPやCD、SACDなどのパッケージメディア、それらに収録された音楽の録音の巧緻是非である。取り上げる音楽ジャンルはクラシックが多いのだが、この方の評価対象はその録音の良し悪しであるから、優れた録音であれば録音家のスティーブ・アルビニが携るようなインディーズロックもなに躊躇することなく評価対象に乗せる。その姿勢の一貫性と評価のぶれのなさ、そしてとある文芸評論家風に書けば「読むという体験が読者に途方もない“聞く欲望”を喚起させ、すぐさま購買という“運動”にその身を加速させて止まない」独特の文章は、いつも惚れ惚れとしてしまう。
 その嶋さんが「季刊Stereo Sound」最新号の定期コラム「The Best Sounding CD」の冒頭の文章、いわゆる現代音楽とそれまでのロマン主義的なクラシック音楽の歴史的趨勢についてこう書いていた。

「現代音楽には優秀録音が多い」という内容の文章を見かける度に、優秀な録音とは刺激的な音のことではないのにとつい思ってしまうのは、たぶん悪い癖だ。
 それでも、「現代音楽」という日本語から直ちにイメージされるダルムシュタット一派(シュトックハウゼンクセナキスリゲティ、ノーノ、ブーレーズ等)とその影響をうけた作曲家の音楽に、オーディオファイルの血を湧かせる優秀録音が多いとは、やはり言い難い。この性質において、いわゆる現代音楽は、たとえばレスピーギラヴェルのような近代の調性音楽の対極に位置づけることができる。
 理由は考えるまでもない。前衛作曲家の、協和音を排して音列に基づいた和声や、音群作法が巻き起こす響きの生理は、優秀録音とは相容れ難い。和することを拒絶したハーモニーの軋みを、どうやったら豊かに美しく録音できるのだろう。無数の衝突を繰り返し飛び散った音の雲を相手に、どうしたら空間の立体性を確保できるというのだろう(単一色で塗りつぶした画面に奥行きを感じるのは困難だ)。
 もちろんダルムシュタットに集まった作曲家たちには、伝統的な語法を否定すべき抜き差しならない理由があった。音楽上の理由と、それ以上に「ロマン主義の否定」を迫る敗戦国ならではの政治的な理由があった。イギリスやソ連、それにアメリカ(の大勢)といった戦勝国の作曲家たちがドイツのように性急に急進的な作風へ向かわなかったのは、決して偶然ではない。
 では、それまでのドイツ音楽を裏打ちしていた機能和声や協和音は行く先をどこに求めたのか。作曲技法から見た時、それはハリウッドだった。1930年代にそこでコルンゴルトやワックスマン、スタイナーのような独墺出身作曲家がその基盤を築いたシンフォニックスコアは、20世紀後半、調性音楽の一大牙城になった。

 続いて文章は映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のサウンドトラック・スコア限定版CDの紹介になるのだが、何を長々と引用したのかというと表題のとおり「映画音楽をクラシック作品のように聞く」ということである。より正確に、そしてあっけなく書くと「音楽を、ただ音楽としてまっすぐに聞く」ということである。昭和の人間の悪い癖で(嘘である。権威主義的なせいである)、どこかサウンドトラックというポピュラー音楽を、クラシックのような“高次の音楽”と別モノとして耳を貸さないでいたではないか、という反省を嶋氏の文章を読んで促されたのである。こういう濁った審美センスを「イデオロギーに毒されている」というのである。素直になろう。
 そして実は氏の文章ばかりでなく、ある映画音楽を耳にした時の感動と再生への欲求が、その反省を後押ししていたのだ。

 ご存知「パイレーツ・オブ・カリビアン」の「奴は海賊」である(本当は「彼は海賊」だったと思う。もちろん「奴」は「きゃつ」と読んでほしい)。かっこいい。とってもカッコイイ。血湧き肉躍るとはまさにこれである。今もってこの映画を観たいとあまり思わないのだが、この曲を自宅のステレオで再生したいという欲望は日に日に高まっているのである。曲を聞いたら映画も観たくなるかも知れない。本当は北見のヤマデンあたりの巨大スピーカーでガンガン鳴らしたいのだが…しかし本当にいい曲だなぁ。
 こういう曲を「ポップスじゃないか」と己のプレイリストからそっと外すなんてしてはいけないと深く反省しているの弁、は以上の通りでありますが、そもそもハリウッドに目を移さなくても、我が国にもこういう血湧き肉踊る映画音楽を作られる音楽家はいらっしゃる訳で、それはもちろん押井守党でなくとも川井憲次先生に他なりません。

 たぶん今までの押井作品の中で一番“わかりやすい”映画だろう「AVALON」から「Log in」。ティンパニー奏者2名を擁した重低音がたまりません。

 テレビでもよく使われる「機動警察パトレイバー the movie」エンディングテーマ「朝陽の中へ」。この疾走感、特にキーボードの間奏には鳥肌が立ちます。

 そして処女作はその作家のすべてを物語ると言わんばかりにそのエモーショナルな曲調をすでに完成させていたと気づかされる、川井憲次映画音楽処女作にしてたぶんベスト3に入るだろう傑作・押井守実写映画処女作「紅い眼鏡」テーマソングです。もうね、このピアノのイントロを最初に聞いた時の感動をわたしは忘れないだろう。ヨーロッパ文化圏に属する南米の、ひどくマイナーな小国で作られたプログラム・ピクチャーの冒頭を飾るような、乾いた、その癖にどこかウェットなこのテーマ曲を聞きたいばかりに「アニメイト」をうろついたのも懐かしい(そして「アニメイト」にはこの手の萌えないサウンドトラックはストックされていないのである)。
 ではこの映画「紅い眼鏡」が川井先生のテーマ曲ばりに血湧き肉踊るかといえば、それはまた別の話である(笑)……ひどい言い方をすれば、川井憲次を見出した時点で映画監督としての押井守は“勝ち”だったのだ。それは押井が自らの監督作には必ず川井憲次を起用することで証明されている。押井自身が言うように、映画はその音楽によって左右されるのである。正直押井は川井の音楽でどれだけ助けられたかわかんないと思うよ♪