日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

「孤独なWeb日記」ふたたびの1

で、昨日書こうとしてた「♪祝初 referred 記念日記♪」の文章をさっきまで書いてたんですが、異常にとりとめもなくなってしまったので、ざっくりと書きたい事だけ書いちゃいます。後はコメントなんかしてくれると嬉しいのですが。
で、小生のページを引用していただいた「松谷加平の生活と意見」の「ブログ」という記事 の中で違和感を述べていた、今回の「『孤独な Web日記』祭り」の大本となった、風野春樹氏「新サイコドクターあばれ旅」の「読冊日記 2003年5月下旬」中の「孤独なWeb日記」について蛇足をいくつか。
正直に申せばこの風野先生発言、ちょっと勇み足というか、ここ最近の胡散臭い「blog マンセー!」な状況への対抗として「Web日記サイコー!」と持ち上げてるだけにすぎないじゃないか、というのが読んだ感想なんですね。

たとえばRead Me!や日記才人の一票のような、きわめて間接的で淡々としたコミュニケーション。日々誰に向けているのでもないテキストを淡々と書き、そしてどこかにそれを読んでくれる読み手がいる、ということに心を癒され、直接感想メールが来たりすると、かすかな苛立ちを感じずにはいられないような、そんな「コミュニケーション」。

閉じてますね風野先生発言。直接感想メールに“かすかな苛立ちを感じずにはいられない”ってーなら“Read Me! や日記才人”に登録するなよと私は思うんですが(笑)。いつからメールを送るのは「マナー違反」になったのだろうかと。
で、続く5月30日の発言で blog を代表するような発言への違和感として「大きな声で同意を求めたり、賢しらな顔で意見を述べたり、興味深いニュースにリンクを張ったりしなくていい。別に『世界中で別々の場所で別の日常を生きている人たちの真摯な思考が、少しずつ寄り合わさって、力強い言葉になってい』かなくたっていい」ってところはおいらも同意するんですが、それは多分、先生にそう発言させている、引用した先の言葉(blog 側からの)から臭う、自らの発言を大きな声に束ねよう、ある種<権力化しよう>という<政治的な>意識、云ってみれば<既成メディアに対する対抗勢力としての blog>側の意識、っていうものに対する反感からですが。でもだからといって

むしろ力強さやジャーナリズムなどとは正反対のところにある、耳を澄まさないと聞き取れないような小さな声で語られる言葉。私にとってウェブとはまずそういう言葉が語られる場所であり、またそうした言葉をこそいとおしいと、私は感じるのですね。そして、そんな小さな囁きにも耳を傾ける人がどこかにいるということ、それこそがウェブの大きな可能性のひとつだったんじゃないか。

わりとここの部分、他のサイトの方が引用されているところなんですがね、おいらはこの言い方にもすっごく違和感があります(特に下線部が気色悪い)。おいらにはこの「ウェブはこうあるべき」という「べき論」にもまた、自らの発言を大きな声に束ねようとする<政治的な>意識を感じるんですよね。大体がして、この<blog ー 大きな声>対<Web 日記 ー 小さな声>という対立構図を作ること自体がおかしいんじゃないかと。その対立構図を作ること自体が、何というか胡散臭い側の blog 勢(まああれです、例えば JBA みたいな…リンク張るのは止めておこう♪)の無意識の罠に乗っかってるんじゃないかかと思う訳です。
ま、以上なんですがね。この文章書くにあたって Hot Wired Japan の特集「blog ってどうよ?」をざっくりと目を通したんですけど、その中で一番勉強になって面白かったのが yomoyomo さんの記事「日本における blog の現在・過去・未来」です。以下にリンク張っておきますので、出来れば上から順番に読んでみて下さい。面白さ倍増。
ようするに何であれ面白いコンテンツであればいいという訳です。
■「日本における blog の現在・過去・未来」
■「I can't blog.」
■「C-tools」