日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

この淋しい国で生き残るために

 たとえば2ちゃんねるまとめサイト、そしてもちろん(スレにもよるが)本家2ちゃんねるも、なるべく見ないようにしている。見ればコメント欄にあふれる罵詈雑言に心が折れそうになるからだ。「顔も素性もわからないからって、よくまぁここまで悪し様に書けるわ」と、暗澹たる気持ちになる。現代を生きる人として弱すぎる、とか言わないで下さい。
「こういう書き込みをするような奴は、自分とは別の人間だから出来るんだよな」と決めつければ精神的には安定するだろうが「私は人間である。こと人間に関するかぎり自分に無縁なものはないと思われる」という言葉がぼくは好きだ。その程度には他人を理解しようという姿勢は持っていたい。
 思うにぼくたちが日常的に遭遇するトラブルのほとんどは、言葉づかい、言い方を変えるだけで相当少なくなる。なので、素性がわからないからと罵詈雑言ばかりのやり取りをしていたら、見ず知らずの他人には冷酷であってよい、という気分に侵されないだろうか。それとも「人はそもそも他者に対して冷酷なのだ」と言う共通認識で日常生活万事オッケーなのかなみんな。
 よくチェックしているサイト "DDN Japan" で紹介されていたドキュメンタリー映像を、今朝は紹介させて下さい。この文章を読んでいるあなたに、もし一時間弱ほど時間があれば、ぜひご覧いただければと願います。もし可能なら家族でご覧になられてもいいんじゃないかな、と思います。
自殺者1万人を救う戦い "Saving 10,000 - Winning a War on Suicide in Japan"

 内容の紹介は控えておきます。もし見ていただければ、何故アイルランドの映像作家が、異国である日本の自殺について映像を作ったのか、そして終盤に紹介される東尋坊の元警察官の語りが、その怒りが、きっと理解できると思います。
 実際のところ、昨年平成24年の我が国の自殺者数は10,000人どころではない27,858人で、うるう年だった平成24年度の日数366日で27,858人を割り返すと1日平均約76人、24時間で割り返すと約3人、すなわち平成24年は「20分に1人が自ら死を選んだ年」ということになる。そしてこの年は、自殺者数が15年ぶりに3万人を下回った年だったという。
 ぼくたちの何気ない毎日の暮らしぶりが、たとえばこういう結果として現れている、ということを。

根雪よ、僕たちをめくらますその時の速さよ


彼は目を閉じて 枯れた芝生の匂い 深く吸った
長いリーグ戦 しめくくるキックは ゴールをそれた
肩を落として 土をはらった
ゆるやかな 2月の黄昏に
彼はもう二度と かぐことのない風 深く吸った
何をゴールに決めて 何を犠牲にしたの 誰も知らず
歓声よりも長く 興奮よりも速く
走ろうとしていたあなたを 少しでもわかりたいから
人々がみんな立ち去っても私 ここにいるわ
同じゼッケン 誰かがつけて
また次のシーズンを かけてゆく
人々がみんなあなたを忘れても ここにいるわ
何をゴールに決めて 何を犠牲にしたの 誰も知らず
歓声よりも長く 興奮よりも速く
走ろうとしていたあなたを 少しでもわかりたいから…
麗美ノーサイド』作詞作曲:松任谷由美 編曲:松任谷正隆

青春のリグレット」もこの「ノーサイド」も、麗美を愛した松任谷由実の曲である。彼女の歌のほとんどがそうであるように、ここに描かれているのもまた、過ぎ去ろうとする季節と、その後ろ姿を見るまなざしである。今ここにあるものが失われ、次の季節に変わっていくことを、誰も止めておくことは出来ない。そんな当たり前のことの重荷を知れば知るほど、過去は今よりももっと輝きを帯び、歌は眠れぬ孤独にそっと毛布をかけていく。根雪よ、ぼくたちをめくらます時の速さよ。などと清水邦夫じみた文章を書くのは書く当人としては気持ちいいが、読む側にすればナンノコッチャである。朝からメランコリじみているのは、疲れている証拠かしら。
 で、同じ松任谷由実の曲で、ぼくもその大仰なアレンジで大好きな「翳りゆく部屋」を、あのエレカシが歌っている映像を見つけてしまった。最初は正直どうかなと思っていたけどだんだんと引きづりこまれ、最後の最後に歌う「どんな運命が愛を遠ざけたの」に何もかもがすべて持っていかれて涙で前が見えない。今さらながら宮本の声は「ズルい」と思う。過ぎていった者達を思い出して、泣きなさい。

君はやさしい人だね

 昨日も今朝も快晴で、それはもちろん、悪いことではない。ただ昨日の午後、舞台準備にいそしむステージの搬入口から晴れ渡った空を見たときに、こう思ったのだ。これはいったいどういうことだ。つい先週までストーブをつけた朝があったことや、ぐずぐずと冬の匂いが続いていた一連の五月の日々、そしてまだ、払いきれない重税のごとく積もっていた雪、雪、雪たち。そんな景色や時間、季節の表情は、この晴れ渡った6月の空の駐車場にはどこにもない。これはいったいどういうことだ、いったいどこへ消えてしまったのか。
「馬鹿ねあなた、何を言ってるの」と優しい人ならそう言って、くれそうな気がする。

この曲を聞くとギッチョンを思い出す。色んな曲を聞いたね。

 カーテンを閉じない窓からの陽射しで目覚めた午前五時、前日までの疲れを取り戻すことは出来ず、二度寝の海にもぐりこんだ。そして午前七時前の朝の光が、二度寝のめざめがもたらすもったりとした後悔の念を、夏の日の雲の影のように、くっきりと浮かび上がらせた。そんな心の描線がたわむれに描いたのは、麗美が歌う名曲「青春のリグレット」でした。

 この、思い切り80年代なアレンジはぼくの好みではない。何だか当時はこんな音づくりの曲があふれていたような気がする。Youtubeが映しだした信号待ちの映像は、もしかすると80年代の東京の街角かも知れない、女性の服装が古臭く見える。この曲もこの風景も今はもうない。歌詞もまた失っていく人の後ろ姿を描いている。そんなことを想起する内に胸が痛くなって、音楽を止めた。

タロットカードとリーディング

 タロットカード?
「煩悩百八つじゃ足りないわ」「何でそれ自信たっぷりな物言いになるかな」「当たり前じゃないもうたまんないわよ」「あんなに偉そうな人だと気づかなかったわ今まで」「売れ残ったらだってさー」「たまんないわー」そんなある夜のテーブルでの会話が、どうしたことかタロットカードにたどり着いた。「タロットカード?」
 今まで占いに興味を持ったことはほぼなかった。例外は手相かせいぜい星座ぐらい、この二つなら人並み程度にはリアリティを感じることが出来る。しかしタロットカードにはちょっと……と思っていると、タロットカード占いを説明する相手の口から「リーディング」という言葉が出てきた。リーディング(読解)? ようするに、現れたカードが象徴する意味を読み解くことを「リーディング」と言うらしい。僕が知っている占いの結果というものは、解釈や変更の余地のない決定的なものだと思っていたのだけれど、タロットカード占いのそれは少し違うらしい。へえ……面白いね。
 占いの結果がリーディング=解釈に委ねられているんだねタロットカードは。というか話を聞いていると、そのリーディングそのものがタロットカード占いの面白さなんだねきっと。例えば教えてくれた「タイム・アロー(時間の矢)」という占いは、現れるカードの順に過去・現在・未来を意味している。その3枚のカードのつながりからリーディングすることになる訳だけど、その3枚のカードを前にして答えを出そうとする心の働き、それってストーリーテリングと同じ心持ちなんじゃないかな。
 めくられたカードと、そのカードを読み解く自己、偶然が導き出したカードを通じての内省的な対話。22枚のカードから選ばれた1枚のカードが、私にとってどんな意味があるのか。何故あのカードではなくこのカードなのか。ちなみにタロットカード占いのルールとして「同じことを何度も占わない」と鏡リュウジ著「はじめてのタロット」には書いてある(48ページ)。選ばれてしまった1枚のカードはテーブルの上に、生まれ落ちてしまった1人の私は人生の上で、偶然性と一回性を通じてカードと人が結ばれる。

えんがるのふくろうカフェで今日

 いつもお世話になっている素敵な二人組ミュージシャン・やーるーずが切り盛りするカフェ「ふくろうカフェ」に、中村 中のライブ周知のため行って来た。開業したての頃はたしか夜が不定期営業と耳にしていた気がして、土日のイベント時ぐらいしか伺えなかったけど、深煎りの珈琲「ひだまりブレンド」をいただきつつ話を聞くと、今はしっかり夜も営業しているとのこと。これはありがたい、すでに夜叉丸君が食したひだまりカレーも、メインの沖縄料理もまだ食べていないのだ俺はありがたいありがたい。
 そのふくろうカフェで今日、沖縄を舞台にした映画「スケッチ・オブ・ミャーク」が15時と18時の二回上映されます。もちろん私も未見なので、公式サイトの紹介記事を。

鳴り止まない拍手と歓声。スイス、第64回ロカルノ国際映画祭での快挙。
グランプリに次ぐ「批評家週間賞 審査員スペシャルメンション2011」を受賞。

 沖縄県宮古諸島。ここに沖縄民謡と異なる知られざる唄がある。それは、厳しい島での暮らしや神への信仰などから生まれた「アーグ」と「神歌」だ。その唄は宮古諸島に点在する集落の中でひっそりと歌い継がれてきた。特に御嶽での神事で歌われる「神歌」は、やむことのない畏敬の念をもって、数世紀に渡り口承で熱心に伝えられたものである。
 ことは音楽家久保田麻琴が、島でそれら貴重な唄に出会ったことに始まる。本作は、その唄を生んだ人々の暮らしを追うなかで、失われようとしている根源的な自然への怖れと生きることへの希望を見出したドキュメンタリーだ。監督の大西功一は、秘められた島の神事を追い、生活と信仰と唄がひとつだった時代を記憶する最後の世代である老人達を温かく見守りながら、かつての島の暮らしをスクリーンに鮮やかに浮かび上がらせた。
老婆達が神唄を歌う時、不思議な懐かしさがすべての人々の心を打つ
 ミャークには、今まさに失われようとしている大切な「記憶」がある。老婆達は語る。かつて厳しい生活と信仰と唄が切っても切り離せないひとつの時代があったことを。そして今も老婆達の心を映すかのように、この島の御嶽では、神事の火が数百年に渡り人から人へと受け継がれ、神女達が生きる願いとともに「神歌」を神に捧げている…。2009年、九十歳を超えた車椅子の老婆達が島を出て東京へと渡る。コンサートホールの舞台に立ち、禁断の神歌を歌うために。満場の観客を前に彼女らは力を振り絞り、歌う…。ミャークの老婆達が歌い継ぐ神歌に触れられた貴重な機会は、おそらくこれが最初で最後となるであろう…
【沖縄宮古島
東京から南西に2040km、沖縄本島から南西に310km、台北から380kmのところに位置する人口およそ5万5千人の島。
霊場である御嶽での神事は、島外の者には容易く触れることのできない神聖な行いとされてきた。
また、薩摩支配下琉球王府によって1637年から1903年まで課せられた「人頭税」のため、人々は塗炭の苦しみを 味わったとされる。

2011年8月、第64回ロカルノ国際映画祭、批評家週間部門に歴代初の日本映画として正式出品。世界から選出されたドキュメンタリーの秀作が並ぶなか、上映後、もっとも熱い拍手と喝采の声を受け、グランプリに次ぐ「批評家週間賞 審査員スペシャルメンション2011」の栄誉を受けた。

 単純にMusic Loverの皆さまとしては、アジアや太平洋諸国・民族の音楽、ざっくり言うとワールドミュージックに造詣の深い久保田麻琴氏が音楽監修を務めているというところでビビットに反応されるのではと思います。加えてライ・クーダー「わたしはミャークの老人たちが羨ましい。小さくても、こんなに完全で幸せな世界を持っているのだ。汚れた世の中なんて気にかけたこともないだろう。彼らの表情を見て、このイカしたファンクを聞けば判る。ミャークはきっと最高のところだろう。賭けてもいいよ」とコメントを寄せているのだから、どんな内容なのか触手が動きますね。しかも今日の上映会には大西功一監督もお越しになるという……ありえん。ありえないぞふくろうカフェ!
 一連のライブといい木楽館でのまちカフェといい、近場の遠軽でこういうイベントを体験出来るとは……小生微力ながら全力でふくろうカフェを応援します。いや普通にここの珈琲は美味しいから(たぶん北見でも紋別でも飲めないよ!)みんな行くといいさ!

かわいいキャラが歌に乗せて死にまくるメルボルン鉄道公式のアニメムービー「Dumb Ways to Die」


 というタイトルのページを今更ながら"Gigazine"で見つけてしまいましたので紹介します。Dumb ways to Die=くだらない死に方、という意味なんですが、どういう理由でこんな作品が作られたのか、当該ページで紹介記事を読みながら鑑賞すると良いですよ。公式サイトもあります。なんか、いいセンスしてますね。
 いや今日はちょっとネタ切れ感が否めないですね、申し訳ない。誰に謝っているのかわかりませんが、だが裏にはiPhone導入への布石という意味合いもありそうだ。