日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

手書きと「自由」

hirofmix2005-10-25

*「[結] 2005年10月 - 結城浩の日記
知っている人は言われるまでもなくよく知っている結城浩さんのブログから。こういう文章を読むと、つくづくコンピュータは紙にかなわないと思う。言葉を知肉化する技術を、我々は紙と鉛筆とで養ってきたのだ。それがコンピュータに代わるには、何百年もの年数が必要なのかも知れない。もしかしたら、そもそも代用不可能なのかも知れない。
若い頃(と書いてもう笑われない歳になりましたね、ご同輩)、大概気が臥せている時に、よく文房具屋でノートを買った。最初のページには大体日記らしいものを書いて、次に青春の叫びとしか言いようがない文を書き、時折戯曲も書いた。
そして、その後に膨大な空白。
そしてまた気が滅入る頃、新しいノートを買っていた。
そんな中途半端なノートが、段ボール一箱分ぐらいある。捨ててもいいのに、そう思い立った時には捨てるのが惜しくなるのだ。


時が経てば、ただ文字が書かれているだけのものでも、見開いたノートはイラストのように見える。自分が記した文章の文字や改行、誤字の訂正、イタズラ描き、そのすべてがあるレイアウトに基づいて構成された、かけがえのない一枚の絵のように思えてくる。
手書きで文字を書いていると、しみじみと「今自分は文章を書いているなぁ」と思わされる。つまらない文章でさえも、それが生きた証のように思えてくる。


今もズボンのポケットに手帳を忍ばせているのは、今初めてここに書いた秘密だ。