日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

雨と雪

いまおれの住んでいる町には雨が降っていて、昨日から降り続いていて今も止まない。おれは帰宅中の車の中で、フロントガラスにあたる雨を見ながら「雨は四十日四十夜降り続き…」という有名な一節を思い出していた。旧約聖書、創世記の一節だ。
雨を思う度に、いつも雪を思い出す。そうして、人はこのふたつの天候に、何事かの「終末」を感じとっていたのではないか、といつも思い起こす。雨はすべてを洗い流し、雪はすべてを覆い隠す。
人が罪の子かどうかはわからないが、ささいであれ罪の記憶を持たない者はいないだろう(その手に正義しかないというのなら、まずその白く汚れた手を洗い落としてほしい)。雨も、そして雪も、その罪を「洗い流し」「覆い隠す」存在として、記憶されてきたと思う。
ただ雨が晴れわたる青空を予期するようには、雪は暖かな春を思い起こさせない。そう思うのは、雪とともに長い冬を暮らす北に生まれたせいかも知れない。
雨には晴天までの時間が流れているが、雪はその冷たさが時間を止めてしまう。雨は生きとし生ける者たちにとって恵みでもあるが、雪はその命を等しく止めてしまう。
再生のない終末、それが雪だ。


深夜、窓の外に立つ一本の電信柱に灯る街灯の元、風に吹かれて静かに降る雪を、今も憶えている。とりかえしのつかない過去が、とりかえしのつかないまま、記憶の層に積み重なってゆくように。