日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

ridin' a hip of horse

 ファンでもない癖にまだ清志郎のことを考えているのは、やっぱり今の空気に流されているのだろう。ずっと愛聴している「文化系トークラジオ Life」の緊急Podcast「葬儀の日に清志郎を語る」(clickするとiTunesが開きます)をやけに何度も聞き返している。ここしばらく『日刊忌野清志郎』じみている仲俣暁生のしゃべり方が熱っぽくて少年のようだ。年下の筈の黒幕長谷川氏の方が年長者に聞えてしまう。今もNHK-FMの番組『Music Line』の忌野清志郎特集(渋谷陽一がコメンテーターとして出演している)を聴きながらこのブログを書いている。これまた中俣氏のブログで知ったのだが、その時はすでに放送は終っていた。ありがたいことにネット越しの知人友人が録音してくれたので、今もこうして『ヒッピーに捧ぐ』を聴いている。

 何だかここしばらくの内に、清志郎の色々な曲を聴いてしまった。その中でも胸に染みたのがこの曲『Jump』

 しかし、どうして今まで清志郎のスタイルがソウル、リズム・アンド・ブルースだと気づかなかったんだろう。MCなんてもろソウル・シンガーのそれじゃないか。本当に俺は何も聴いていないな、まったく。


 ちょっとだけ前回の文章の追記をする。わかった振りをして書くとろくなことにならない。
 清志郎のパンク風「君が代」を聴くと、そのアレンジに「君が代」自体を否定するといったニュアンスは感じられない。単にロックとして「君が代」を演奏したというニュアンスである。逆に小西アレンジの「君が代」の方に、ある種の「悪意」を感じとることが出来る(特にその軽薄まがいなドラムスの音に)。
 ただどちらの曲も、そのメッセージを伝えんとするニュアンスは非常に微妙で、何事も大文字で大声で語ろうとする輩の耳には、その大切な意味なんか聞き取れないだろう。聞き取ったってかまやしないだろうさ。
 たぶん、そういう輩ばかりの世界に向けて「君が代」を発表せざるを得なかった清志郎は「大人」だったと思う。絶望するとわかった上で歌うというのは、どれほど辛いことだろう。彼の曲の多くが自分を肯定する内容だったのは、世界の誰もが自分を本当に否定しようとのしかかってくることを、ひしひしと感じていたからなんだろう。もちろん、それはただ清志郎本人にとってだけの世界なんだけど。誰だって、そうさ。


 まったく、今まで俺はいったい何を聴いていたんだ。