日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

"Im Kampf zwischen dir und der Welt sekundiere der Welt."

これが「君と世界の戦いでは、世界を支援せよ」のドイツ語原文である。


この言葉が学術的にどのように解釈されているのか、最初はそれが知りたかったのだ。だがネット上の日本語で書かれた文章から、それは見つけられなかった。そもそもが走り書きのメモだというから、正確な文脈など走り書きしたカフカ当人にしかわからないのかも知れない。
そんな単語の連なりに勝手に胸打たれた者たちは、そもそもの文脈など考慮することもなく、胸打たれた意味を求めて自らに引き寄せた意味を造りだしている。実際のところ、人から人へと手渡される言葉など、そんな風にしか結局流通しないものなのかも知れない。
正確な解釈が見つからないのなら、仕方がない。とりあえず原文を探しだして、そこから類推してみようと考えた。
人力検索はてな」にこんな質問をしてみた。

加藤典洋氏の著書名で、元々はカフカの言葉と言われている「君と世界の戦いでは、世界を支援せよ」のそもそもの出典、その原文を探しているのですが、ネット上でなかなか見つけることが出来ません。ネット上、もしくは書籍など、どなたかご存知ないでしょうか?

おおさすがはてな、思いがけずドイツ語原文を素早く教えられたので、さっそくウェブ翻訳サービスを使って人生初のドイツ語訳をしてみたのだが、何せドイツ語なので、訳文が吐き出されてもそれが本当に正しいのかがよくわからない。意味ないじゃないそれじゃあ。
そこで次に、原文のドイツ語の単語を逐次的に英単語に置き換え、おおよそ英文らしくなったところで検索をかけてみた。
"In the fight between you and the world, back the world."
これが英語圏で流通している"Im Kampf zwischen dir und der Welt sekundiere der Welt."の英文である。ここで使われている"back"には“背後から支える”といった意味があるというから「支援せよ」でまあ間違いないだろう。
ただ先の日本語訳「君と世界の戦いでは」だと、「君」VS「世界」というお互いが面と向きあったニュアンスが感じられるのだが、英訳文が"In the Fight"となると「君」と「世界」が戦いという場・状況に置かれる、という感じがする。「君」も「世界」も戦いという場においてはともに同等で、戦いという状況に対してどちらも受動的な感触がある。両者が戦いの場に投げ出された感じ、とでも言おうか。
そのへんのニュアンスをもって訳してみると、例えば「君と世界とが争いにおかれたら、世界を支援せよ」となるだろうか。ちょっと言葉が弱まった感じ。
戦いの中で、「君」よりも片側の「世界」をバックアップすること。


しかし「君」よりも巨大な「世界」が同等に扱われる戦いの場っていうのは、一体なんだろう。そもそも誰がこの両者を戦いの場に投げ入れたのか。


例えばカフカにはこういう言葉もある。別役実は自作『マザー・マザー・マザー』の最終章で、登場人物のひとりに、カフカの言葉としてこう語らせている。
「神の前で人間は間違えている。神が間違えている時でも、人間は間違えている」
たぶん古代から人は、この世界、そして自らの存在の不思議に向きあった時、その理由を「神」の存在によって納得したはずである。そうして「神」は世の中すべての謎を吸い込んで、謎に絶え切れなくなるたびに、人は知識という手持ちの少ないカードで継ぎはぎした論理・言葉をもって解決してきたはずだ。「よって神は正しい」という結語に至るために。