日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

ある晴れた日の儀式

ひょんな成り行きで、友達に弓を見せてもらった。
その友達にとっては軽い練習程度のものだったのだが、それだけでも弓道というものがスポーツでない事はよくわかった。それは或る種の儀式といった方がすでにふさわしい。弓は「当てる」ものでなく「当たる」ものなのだ、という。さすがに「道」が付くだけある。
晴れた日の土曜日だった。友達は普段着の上に胸当てをつけただけで、道場に置かれた巻藁のすぐ側で構え矢を当てる。準備運動みたいなものなのだろう、矢を放つまでの所作を確かめながら、友達は無駄な動きを意識から洗い落とそうとしているようだ。板張りの床の冷たさが心地いい。
そして友達は、射法八節に沿って数メートル先の的に意識を向ける。その一連の動きを、おれは能でも見るように観賞する。友達がその小さな足で足踏みをした時から、そういう時間が流れはじめていたのだ。
友達の矢は当たらない。そう本人が言っていたからこちらも笑わないよう心の準備はしていたのだ。だのに放たれた矢は優しい弧を描きながら、それが約束だったように的に到達した。
思わずおれは声を上げていた。目の前で手品を見せられた子どものように。
道場と的の間を、風が見えない線を描いていくのがわかる。よく考えると、おれは生まれて初めて目の前で弓を見ている事に気づいた。
友達はまた次の矢を放つための足踏みに入る。正座の出来ない外国人のように足を伸ばして眺めているおれとしては、是非ともここは濃い抹茶と甘い和菓子(出来れば金つば)がほしいところだ。
確かに友達のまなざしからは矢を当てようという意識の強さを感じる事はなかった。足踏みから胴造り、弓構えから打起し、引分け、会、離れ、そして残心と、その一連の動きはなだらかなもので、茶道のふるまいでも見るようだった。矢が当たるとか当たらないとかいう趣向はすでにどうでもよくなっていた。
これは或る種の芸術と言っていい。能や舞踊と同様に、弓を放つという一連の動作を通じて、その空間と時間を感知する事の方が、少なくともそれを見ている側にとっての体験に近い。
その所作そのものではなく、その所作が描くフォルムからこの空間と時間を感じ取る事。友達はいま何を感じとっているのだろうか。


職場に言い残してきた時間はもう間近で、ある晴れた日の儀式は、こうして終った。