日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

遠くで雷が……

月曜日。仕事を終えて、そのまま家に帰るのが億劫で、ペットボトルのお茶を買ってから、家の反対方向へ車を走らせた。
助手席側の窓ガラス、暗い夜の空の向こうで、エノラゲイの爆撃のように一瞬光が放たれた。雷だ。


雷の好きな人がいる。
そいつは雨が降り雨足が早まり瞬間窓ガラスが光ると笑みが浮かぶ。楽しそうなのである。
雷が好きと云うのもどうなのかと思うが好きな人にはそんな事知った事ではないし余計なお世話である。
ようするに雷の好きな人は、奇跡のような自然現象に対して子どもに返れる心を持った人なのだ。だから皆既月食もデジカメに収めてある。陰陽太極図のように分かたれた半月はとても小さく、たぶん部屋の窓から撮影したのだろう、月に手を伸ばしても届かない思いまでが伝わってくるようだった。
科学する心と云うのは子どもの目線で事物を眺める事だ。好奇心が充満している子どもに「あの雷が自分にあたるかも知れない」という不安などない。だから科学はきっと、子どもの楽天性から成り立っている。地を這うような心もちの人に雷を観察し驚愕する事など出来ない。明日は我が身と怯え震える。


ただ、遠雷であれば、地を這う人もさすがに怯えることはない。窓を開かなければ落雷の音も聞えない。車はかりそめの折り返し地点に走り続ける、遠雷の光る方へ。
また白い閃光が放たれる。


すでに時計は一時をすぎた。携帯電話は胸ポケットに収められ、雷の好きな人に伝えられない遠雷はただ光りただ放たれる。