日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

たしかにそばにいた少女


しかし何でaikoは可愛く見えてしまうのだろう。こういう顔は90年代からこの方、表立った場所でほとんど見る事がなくなった。
70年代ぐらいには、いっぱいいたんだけどね。ユッコちゃんとかミノリ先輩とか(笑)。可愛かったな。

この歌は不思議な歌として心に残っている。
この歌が、自死を選んだ「あの子」を歌った曲だというのは、わかってはいた。
「白い坂道が空まで続いていた」という夏を連想させる印象的な情景描写の後に「ゆらゆらかげろうがあの子を包む」という歌詞で季節を補強し、その情景と「あの子」が一体となって描かれる。そして「誰も気づかず ただひとり あの子は 昇っていく 何もおそれない そして舞い上がる」。そしてもう「あの子の命」は空に吸い込まれ「ひこうき雲」となっている。
ここにあるのは、自殺の陰惨さよりも、例えば「天に召される」とでも表現せざるをえない、微妙にスピリチュアルな世界である。だから、と接続するのは唐突かも知れないが、この曲を聴いて思い知らされるのは「あの子」とこちら、こちら側との決定的な距離感だ。白い坂道を昇るようにして天に召されていく「あの子」にとって死と生との間には断絶がない、そんな風に思える。そんな「あの子」=少女の意識のありようが、それを理解出来ないこちら側とに決定的な距離感を生み出す。


しかしたしかに、僕の知っている「あの子」たちは、どこかそんな風だった。それはただ男側の幻想なのかも知れないが。
男には決定的に女がわからない、とはよく言われる話だけれど、そのわからなさ加減とは、この「ひこうき雲」が表現した或る感受性を生きられたかどうか、といえるかも知れない。


まなざしの先に、よるべない思いが、青空に吸い込まれていく。
そんな「あの子」の横顔に心魅かれたのは、ようするに、そういった感受性に心奪われただけのことなのかも知れない。ぼくの知っている「少女」というのは、ようするに、そういった「あの子」たちなのである。
その感受性はいつか失われていくもの、なのかも知れない(その喪失の予感はきっと「あの子」達の方が切実に感じ取っているだろう)。けれども、完全に消え去ってしまうものでもないだろう、たぶん。


日常出会う、目尻に皴を作って久しい「あの子」たちを見ながら、そんなことを思ったりもする。