評論とは、ようは詩である。
■アイドルについて語るということ(七里の鼻の小皺)
久しぶりに読みでのある文章を読んだ。おまけに泣ける。出来ればじっくり読んでいただきたい。
説明しようという欲望、というのがあるのだ。それは世界を全部語り尽くそうという無謀な欲望である。その欲望が何に起因しているのか、それはもちろん愛である。この文章もまた。
「モーニング娘。の石川梨華が排泄をするか否か」という2chのモー板で有名な問いがある。その解答を読むだけでも、キリストの奇蹟を信じようとする信徒の暗い情熱に近いものを感じ取ることが可能だ。次の文章は、その紹介文の前段階に書かれたものの引用である。
2ちゃんねるの「モーニング娘。(狼)」板で、今日もある人が、矢口を信じると主張する。最初は控えめに、しかしやがて、信じる気持ちを掻き集めるようにして。「(狼)」板の住人たちは、それは状況証拠からして、可能性の少ない身振りだといって、糾弾してくるかもしれない。しかし彼は、あの手この手で、矢口を信じる方法を紡いでいくだろう。アクロバティックに組織された「物語」への祈念が、惨めな「現実的」要請と切り結ぶ。本当の現実とは、この衝突の現場にはじめて屹立する強度に与えられる名前である。
現実とは、したがって象徴的には、アイドルが排泄をしない極小の可能性に賭けるなけなしの勇気と、アイドルも排泄をすると考えることを自分に許す諦めとが、激しく衝突するときに開かれる間隙以外のものではない。
アイドルと云う不可能な恋愛の物語を生きる者は、この現実の中で常に引き裂かれ、信仰を問われる。たとえば、同じく元もー娘の辻希美の出来ちゃった婚について、次のような言葉を私たちは“真理”と呼ばずして何を“真理”と呼ぼう。
770 :名無し募集中。。。:2007/07/06(金) 20:17:35.82 0
ちょっとまて妊娠したとは書いてあるけどエッチしたとは書いてない
まだ大丈夫だ
この文章はすでに長文の詩である。そこかしこに、無謀にもビューティーを信じようとする者のなけなしの決心と現実へのあらがいが蓮實重彦口調で記されている。お好きな方には是非読んでいただきたい。