日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

雑誌=広場

と書くとかなり牧歌的な印象を与えるかも知れないが、まあいいではないか。言いたい事はようするに「雑誌とは、あらゆる人が出会う場所である」ということである。
今まで読んできた中で、自分にとって面白かった雑誌を上げれば「ロッキング・オン」「Wired日本版」「(初期の)宝島30」となる(次点は「本とコンピュータ」「考える人」)あえて共通点を上げると、

  • 雑誌としてのカラーが鮮明であること
  • コラムが充実≠雑多していること

この二点に集約される気がする。一番を簡単に言うと専門誌となる。いや専門誌でなくてもいいのだけど、そうでないとカラーを鮮明に出すのはなかなか難しかろう。で、その専門性を微妙に逸脱しつつも「ああやっぱりな」と納得させるような定期コラムが充実していること、この両者による雑多性が確保されていれば、雑誌としてはかなり素晴らしいものになろうと思う。
例えばロッキング・オンなら洋楽ロックがメイン(雑誌のカラー)である。とは言えコラムには何故か「うる星やつらビューティフル・ドリーマー」の秀逸な投稿などが載っていたり、かと思うと現在オーディオ評論家として活躍中の広瀬氏はロック外の音楽ばかり評論していたし(おれが読んでいた頃はゲンズブールばかり書いていた)、岩谷については前述のとおりだし、松村はプロレスだしマンガは「もしもし編集室」だし、一番読まれていたのはやはり「渋松対談」だったのだ。
どういう編集意図がそうさせたのかはわからないが、雑誌と云うのはやはり編集長のカラーが如実に現れてなんぼの媒体で、その編集長の間口の広さがそのまま雑多な(豊饒な)誌面を構成するのだと思う。人というのはそもそも様々なベクトルを抱えて生きている訳で、その様々なベクトルをそのまま表現する媒体としての雑誌の有効性は、実はまだまだ失っていないと思う。
という訳でステサン別冊「BEAT SOUND」はまだまだ頑張っていただかなくては困るのである。あのままちんまりとまとまられても淋しい限りである。ジャズだってクラシックだって扱っていいのだ、それらを束ねられるなら(というか、束ねてくれ)。*1

*1:本家STEREO SOUNDだって最近の号を読んでいると、微妙にモデル・チェンジをはかろうとしているのが読み取れる。その意味からもたぶん心あるステサン編集人は「アフター菅野」を考えているはずである。印籠を渡すには彼を乗り越えなくてはならない、高かろうとも