日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

あこがれ(午後のスケッチ#2)

窓。白いレースの向こうにある景色は見えない、今はそれでかまわない、空は晴れているから。陽射しは、もう一日の終わりが近づいていることをそれとなく匂わせている。暖かいが、暑くはない午後の陽射し。窓外から遠く聞えるテレビの音、時折聞える子どもたちのはしゃぎ声、午後の静けさを伝えるアクセサリー。
それは、僕も相手も仕事のない休日の出来事に違いない。
ふたりとも、パジャマ姿からはもう着替えているだろう。休日の朝をそれぞれに用事をすませ、路地の角を曲がるようにして一息をつく時刻となる。そして窓際の円テーブルにすわる。向かい合わせで。


CDの音楽が流れているだろう。グレン・グールド……バッハ? モーツァルト? こんな時、どんな曲が良いのだろう。
それが当然の流れのように、僕は「珈琲、飲もうか?」と言う。言葉は疑問形でも、それは僕と相手にとっては既に決められたことだ。冷凍庫から珈琲豆を出し、二人分より少し多めの珈琲を淹れる。相手は窓の外を見ているかも知れない、古い雑誌を読んでいるかも知れない。何をしているにせよ、小さめの音量で流れている音楽とその音が伝える午後の静寂を壊すことはないだろう。


いまこの世界には、二人しかいないんだね。
ポットは珈琲の湯が沸いたことを教えて息絶えた。


「この前ね、」と、どちらからともなく会話ははじまる。手の中の珈琲カップの暖かさ。僕は頬杖をついて相手を横顔を見ている。
おたがいに話すのは、基本的にどうでもいい話ばかりなのだ。それは間合いの長いキャッチボールのようだし、行為にいたらない愛撫のようだ。何気ない仕草のようなたがいへのいたわり。きっと薄く開いた窓からは風が入り込み、長いスカートのようなレースを時折ゆらすだろう。


僕も相手も、もっと若かったなら、このまま時を止めてしまいたいと思うに違いない。けれども時が止まらないことを、もう僕も相手もよく知っている。時はいま、灰皿の上の消えそうな煙草の煙のように、たゆたっている。


「愛してる」という言葉は、きっと口に出してはいけない種類の言葉なのだろう。口に出したとたんに腐食して、呪いの言葉に変わるのかも知れない。だからこうしてテーブルをはさんで、ただ相手を見つめているだけでいいのだろう。夕食の時間だって近い。明日着る服も選ばなきゃならない。やるべきことは数限りなくあるのだ、おたがいに。
それでも静かに時は流れていく。珈琲は冷めて、音楽は途絶えた。それでもまだ君と……


あどけない、午後の話である。