日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

何故これは「詩」なのか

「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聞いていると
ぼくは一生ひとりで暮らす方がよかったんじゃないかと思う
そば粉のパンケーキを焼いてメープルシロップをかけて
ひとりで食べる自分の姿が目に浮かぶ

改行
友達なんかだあれもいないのだ
もちろん妻も恋人も
従兄弟の名前ひとつ覚えていない
両親の墓参りは嫌いじゃないが
それはもうふたりとも死んでいるから

改行
マスターベーションするんだろうか
それとも女を買うんだろうか
朝までしつこくやるんだろうか
いろんな体位で

改行
赤ん坊の夜泣きも妻の罵声も知らないぼくが
「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聞いている
だがひとりぼっちのぼくはもうひとつの人生を思い描いたりはしない
忠実な老犬のようについてくる旋律を従え
冬枯れの並木道を歩いてゆく
かかわったこともない人間への憐れみに満ちて

改行
そうやって精一杯この世を愛してるつもりなのだ
悪意も情熱もなく

 谷川俊太郎「ひとりで」(詩集「世間知ラズ」より)

お若いな谷川さん、まだ「朝までしつこくやる」事が出来るのか。いや別に詩がいつも自分の事を書くという訳ではないのだが。
たまにこうして詩を読んだりする事はある。だから何だ、と云われると「そんな事云うかよ」とふてくされるぐらいなんだけど。でも「詩」というのは不思議なものだ。大体上の言葉を何故「詩」と思えるのだろう。行分けのせいか(ちなみに谷川さん本人も他の詩の中で「行分けだけを頼りに書きつづけて四十年 おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心」と書いている)。この詩だって句読点を入れて繋げれば散文のように見えるだろう。いわゆる詩らしいフレーズといえば「忠実な老犬のようについてくる旋律を従え」の部分だけじゃないか。
でも読めばやっぱり詩だと思わざるを得ない。
ま。そんな戯れ言はともかくとして、この詩が良いかどうかという話の以前に、染み入りますなぁおいらには。「だがひとりぼっちのぼくはもうひとつの人生を思い描いたりはしない」とさりげなく自らを肯定できるかどうかは一向わからないが。

今までよりきれいな髪になるよきっと。
ではでは。