日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

Hello, new world!

拝啓 お元気ですか。いかがお過ごしでしょう。ここ二三日、夏らしい日が続くようになりました。今日も閉館前の職場を裏口から外へ出た時、夏の夜らしい静かな空気を感じて、ひとり落ち着きを取り戻しました。
 そんな時に「ちょうど波のようにさよならが来ました」という歌詞が頭の中で鳴り響いていたのです。

 いまこうして聴いてみると、ストリングスのアレンジが甘く感じられてなりません。この曲をはじめて耳にした時は、もっとかそけくて、でも芯の硬い音に聞こえていたはずなのに。こんなはずじゃないのに、と今も聴きながら思っているのだけど、同じ曲を聴いても心に響いている音はひとそれぞれ、その音を聞いた時によっても違う面持ちを見せるものなんですね。そしてそうであっても、やはりこの曲はわたしにとって佳曲のひとつです。

いまふと思い出した一節

 ユダヤ人は「すでに名指され」「すでに呼びかけられたもの」という資格において(レヴィナスの術語を借りていえば「始原の遅れ」を引きずって)はじめて歴史に登場する。
 そのつどすでに遅れて登場するもの。
 この規定がユダヤ人の本質をおそらくはどのような言葉よりも正確に言い当てている。そして、この「始原の遅れ」の覚知こそ、ユダヤ的知性の(というより端的に知性そのものの)起源にあるものなのだ。
内田樹「私家版・ユダヤ文化論」より(文春新書・213ページ)

 この本を読んでからずっとこの「始原の遅れ」という言葉が描こうとする世界が気になっているんです。といってレヴィナスを読めるほど読書力があるとも思えないので、まだ考えはぼんやりしたままです。誰でも気がついた時には寄る辺ない気持ちにさせられたのではないか、と思うのだけど、自分が生まれる前から世界がすでに存在していたこと、どうやらそれは途方もない時間の果てまで遡れることに、軽い、ごく軽いおののきを感知した人は、少なくないのじゃないでしょうか。だから人は誰もが「遅れて」存在するのである……面白いな。

静けさの中にこうしてひとりでいる

 今夜、台所で汚れた皿を洗いながら、いまこうして自分がひとりでいること、そのやわらかな淋しさと満ち足りた空白を、久しぶりに感じ取ることが出来ました。こういう静かな気持ちを感じ取ったのは、ずいぶん久しぶりのことです。すっかり忘れていました。

レイヤーが違うんだが…

 人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
 その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。

スミ・ラジ・グラップ(EMIクラシック部門プロデュサー)

 昨日見つけたオーディオサイトaudio identity (designing)で発見した言葉です。いい言葉ですね。とはいえわたしが孤独でいるのと、そもそも人が孤独であるのとは全然関係がないんですけどね。どうしましょう。

 世事に疎いひとは、いつでも世間に驚愕することが出来るんですね。驚きました。では、また。草々。