日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

「騎士団長殺し」を読んでいる途上で

 小説に関して、僕は村上春樹の良い読者とは言えない。氏のエッセイのたぐいなら、ほぼ全部目を通していると思う(読んでいないのは『シドニー!』ぐらいしか思いつけない)。なので、文庫化された『騎士団長殺し』を、買っておいたハードカバーの第1巻で毎日少しずつ読み進められるのは、ひどく久しぶりな気がしている。まぁブームにもなった長編『1Q84』は読み終えているのだが、それ以前の『少年カフカ』や『ねじまき鳥クロニクル』といった長編は、懐かしい『ダンス・ダンス・ダンス』以降読み終えられなかったのだ。中編、短編もほぼ読めていない。読み終えたのは「神の子どもたちはみな踊る」ぐらいである(あれは良い短編集だった)。
 今でも村上春樹は色々と言われる作家である。ある知り合いは「今まで村上春樹を読んだことがないのは、わたしの自慢の一つだ」と言っていた。僕自身では、小谷野敦村上春樹に対する発言のいくつかは、納得できるものもあった。
 とはいえ、300ページ近くまで第1巻を読み進めてきた今の気分としては「何にせよ、こんな気のふれた、クレイジーな話を300ページ近くも読ませるのは、才能としか言いようがない」と言いたい。確かに第1巻の表紙には「第1部 顕れるイデア編」と記されていたが、まさか本当に物語中に「イデア」が登場するとは思いもしなかった。なんだこれ。なんだこの話は。しかし謎の説得力が先へ先へと文字を読ませていく。
 もしかしたら、氏には久しぶりになる一人称小説という点が『風の歌を聴け』『1978年のピンボール』『羊をめぐる冒険』といった鼠三部作に愛着のある自分には、読み進めやすいのかも知れない。そもそも近年はドフトエフスキーを例に出して総合小説への夢を語り、そのためにこそ三人称小説を書き続けてきた村上春樹が、何故ここに来て一人称小説を書いたのか、それもまだ謎のままだ。
 ここしばらく色々とあったせいかもしれない。いま『騎士団長殺し』を読むのが本当に愉しい。どういう巡り合せかで、今この本を読むちょうど良いタイミングが訪れたのかも知れない。文中の言葉のひとつひとつが、いつもより胸に残る。たとえば文中で主人公が語るこの言葉。「時間を私の側につけなくてはならない」

 という訳で、これは続きも読めるだろうと、遠軽へ出たついでに町で唯一の書店で『騎士団長殺し』の第2巻を買った。あわせて安彦良和の『革命とサブカル』があったのでこれも購入した。この本は、僕に読まれなくてはならない本なのだ。

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

革命とサブカル

革命とサブカル

神田神保町

 2019年(令和元年)5月19日 日曜日。54にして初めて、神田神保町を二時間近く歩いた。東京に来てはじめて、好きになれそうな街だった。そのことを少し、地下鉄神保町駅そばのドトール2階喫煙室で書きはじめる。

 朝10時はまだ古書店はどこも開いていない。最初に新刊書店の書泉グランデを覗く。
 店内は広くない。エレベーター横の館内説明を読むと「鉄道」「ミリタリー」など、一見してマニア臭のする項目が並んでいる。1階の狭い店内にはポップがあふれていて「店員が選んだラノベコーナー」などもある。全体的に若い人向け、マニアに特化している書店のようだ。
 正面玄関を出てショーウィンドウを見る。イベント予定のポスターが貼ってあり、ほぼグラビア系アイドル。三省堂書店東京堂書店という本流の書店との差別化を図っているのだろう。

 続いて、三省堂書店神保町本店の店内を軽く散策する。
 書泉グランデの2倍ほどの売り場スペースだが、広いという程ではない。1階には人文系書籍の特設コーナーが並び、それだけで心が躍る。
 すずらん通り側の入口側にショップがあり、訪問記念に、珈琲用に使う、銀の錫製のカップを贖う。
 ちくま学芸文庫の新刊「増補版普通の人々」を買うべく2階文芸コーナーに行く。

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))

 1階を含め書棚はそれほど多くはないが、その品揃えには感服した。限られたスペースに(限られたスペースだからこそか)、書店員がしっかり本を選んで並べているような印象を強く受けた。こういう経験は、今までいくつかの書店を見た中で、生まれて一度も体験したことがなかった。今まで行ったことのある札幌の今はなき旭屋書店、今は札幌駅そばの紀伊國屋書店、随分昔に行った東京の八重洲ブックセンター、そして北見のコーチャンフォー、今はなき福村書店でも、こんな体験をしたことはなかった(こちらの年齢によるものだろうが)。本当に感服させられた。

 限られた書棚に並ぶ、選ばれた本たち。その印象は、三省堂書店よりスペースの狭い、東京堂書店神田神保町店でも同様だった。
 カフェコーナーのある1階は、それだけで文化に興味を持つ若い人向けという印象を受ける。ダークブラウンを基調にした落ち着いた店内に、書店員の選んだ特設コーナーが用意されている。こちらもほぼ人文撃の書籍だ。三階の文芸コーナーへ向かう。
 今回は神保町初訪問の記念に、藤井貞和の詩「雪、Nobody」が記された詩集を購おうと決めていたのだが、東京堂書店三階の詩集の棚にもなかった。書籍は、三省堂書店よりやや充実している。その書棚から「春楡の木」という詩集を選んだ。

春楡の木

春楡の木

 エレベーターで階下へ降りようとした時に、作家の直筆サインコーナーが目に入った。さすがに藤井貞和の詩集はなかったが、小谷野敦の本があって、買うかどうか迷ったのだが、読めるかどうかわからないので、諦める。

 古書店の半分近くが、11時を超えても閉店していた。多くの古書店が、文化を仕事にする人たちに向けて営業しているのかも知れない。戯曲、シナリオ専門らしき矢口書店という店があり、別役實かつかこうへいの本を買おうとしたが、ほしいものはなかった。この店は戯曲よりも映画関係の本が充実しているようだ。たぶん端役が使ったのだろう、映画の台本が多く売られていて驚かされる。
 映画コーナーに、小林信彦の本が10冊ほど並べられていた。「東京のドンキホーテ」があり、ちょっと迷ったが、買わずに店を出た。

 日曜日とはいえ混みあってはいない古書店街を歩いていると、岩波ホールが目に入ってきた。入口に入って今年1年の上映作品を見て、またしびれた。文芸臭漂う海外の作品が目白押しである。ちょうどこの日は、観たいと思っていた「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を上映していた。3時間近くの上映時間と知り、さすがに観るのは諦める。「間もなく開演いたします」という女性の声にも心を惹かれた。

 三省堂書店東京堂書店、どちらにも文化の匂いがあった。この体験も生まれて初めてだった。本ならもうネットで買えるなら十分、なんて自分が今までなーんにも知らなかったことを痛感させられた。書店の中を数時間過ごすだけで、文化の匂いを胸いっぱいに吸い込むことが出来る気がした。
 もちろんこの匂いは、神田神保町という街が醸し出す匂いのひとつだ。

 北海道という「植民地」に生まれ育ったわたしにとって、東京ははじめて来た時から、ひとつの「街」として把握することが不可能な、巨大で、人混みにあふれた都市だった。意識の高みに立って一望することなど不可能な、様々な「街」が雑踏と道路と路線でつながれた場所。そんな風に、頭の中に東京の地図を描けないことが、いつも僕を落ち着かない気持ちにさせ続けた。
 長年暮らしたことのある札幌も、二度ほど訪ねた京都も、頭の中に地図が浮かび、ぼんやりと街を“ひとつかみ”できる印象を持てるから、例えば札幌や京都の知らない場所も来ても、疎外感を受けることはほとんどない。けれども東京はどこにいても、自分と無関係の場所としか思えない。わたしと東京は消費活動でしかつながることが出来ない。
 巨大すぎる東京という土地を、自分と一切無関係な人たちがあふれている。そんな一人ひとりにも交換できない人生の物語があり、自意識を抱え、生活という首輪をつけられ、自分一人にしか理解できない場所へと流れていく。これほどたくさんの人がいるのに、誰とも出会うことが出来ない、という当たり前のことを強要させられる場所。街にいるものが等しく体験するだろう固有の匂いを、東京にいるわたしは、いつまでも共有することがなかった。そのことが、わたしをどこまでも孤独にさせる。
 そんな孤独をはじめて感じさせなかったのが、この本の街・神田神保町だった。本を介してわたしをつなぎとめる街。また訪ねたいと思わせる、東京でははじめての街だった。

 家に帰ったら、谷川俊太郎の「神田賛歌」を読もうと思う。

酔った勢いで「マリーゴールド」について書く

 α station を聞いていた土曜日の朝だったと思う。「麦わらの帽子の君が揺れたマリーゴールドに似てる」という歌詞が耳に届いて、いやまた随分と古臭いけどいい曲だなー、90年代にこんな曲あったんだなー知らんかったわーと思っていたら、あいみょんの「マリーゴールド」という最近の曲だと知って驚かされたのだ。

あいみょん - マリーゴールド【OFFICIAL MUSIC VIDEO】
 ほぼほぼフォークソングじゃんと思っていたので、まさか平成も暮れかかる2018年の新曲だとは思いもしなかった。
 あいみょん、という名前は spotify のおすすめに出ていたので知ってはいたが、自分と関係するような音楽を演奏するような人とは思っていなかった。大体、最近の流行り歌をいいわーと思えること自体、私にはすでに僥倖に近い。
 ずいぶんと独特の声をしている人だ。はじめて聞いたときは男性歌手だと思って聞いていた。歌詞も男性側からの曲でもあったし。あとで女性だと知った時には俄然興味が湧いてしまった。
 こんな風に、男目線の歌を歌う女性フォーク系歌手に昔イルカという歌手がいたけど、今思えば、イルカの歌う「なごり雪」にしても「雨の物語」にしても、イルカが歌詞の世界の男女どちらかに投影されている風にはあまり聞こえなかった。そこいらはわりとフラットだったというか。「マリーゴールド」のあいみょんは、はっきりと自らを男側に仮託して歌っているように聞こえた。そこんとこがなかなか今風なのかしら、と思ったりもして。男の声としては細いのだけど、女の声にはちょっと疑問符がつくし、歌声の主はやはり男側にあるように聞こえた「マリーゴールド」は、結果として男女ばかりでなく BL にも 百合にも素敵なBGMになるのじゃないか、同性同士のカップルにもぴったりと寄り添ってくれるラブ・ソングだな、という感触を得た。それはひとえに「マリーゴールド」を歌うあいみょんの歌声の力によるものだろう。
 先程記したサビの歌詞の後に続く「『もう離れないで』と泣きそうな目で見つめる君を」の唐突なシリアスさも良いし、二番目の歌詞のサビ「やわらかい肌を寄せ合い少し冷たい空気を二人 かみしめて歩く今日という日になんて名前をつけようかなんて話して」にはほとほと心打たれた。「〜なんて名前をつけようか」で歌詞が終わるのなら、それは歌い手側の男の思い込みでしかないし、今までの流行り歌にもよくあるフレーズに過ぎないのだが「〜なんて名前をつけようか」の後に続く「なんて話して」がもぅたまらない。そんなリテラシーの高い台詞あんたら語り合ったのかーい、という高純度のピュアさ加減にいささか目眩がした。いやはや、やはり時代は進化しているのだな、という思いを新たにしたので、酔ったついでに二年ぶりにここに書き記しておこうと思った次第である。有り体に言って、傑作ですね。

新年あけましておめでとう

 もう今日は1月9日月曜日、新年からもう1週間以上が過ぎてしまった。新年の挨拶は消費期限が早い。今使っても晴れがましさはもうない。
 何にしたって言葉や文章には賞味期限、消費期限がある。
 いやいや早まった、言葉や文章のことじゃなく、扱うネタのことだ。
 新年の挨拶は消費期限が早いけど、今日観てきた映画『この世界の片隅に』の感想であれば消費期限は今しばらくは先だろう。しかし書こう書こうと思って書けずにいる『シン・ゴジラ』の感想を、こういったブログのように表立った場所に書いたところで、それはすでに消費期限切れである。世の中タイミングが大事である。
 それはそれとして、ただ自らのために何事かの感想を書き留めておくことは大切だ。それは端的に生きた証だし、書くことで「思い」は書き手に明示され、そのことが自らを更新していく。
 なのでいつか『この世界の片隅に』も『シン・ゴジラ』も、ここに拙い感想を書くことになるだろう。でも書かれる言葉や文章はいつも「間に合わせ」のものだ。その時その時にわかる範囲できる範囲、知識と想像力の利き腕が伸びるところまでの「間に合わせ」の一品だ。
 そしてそんな現実的な限界とはまた別に、何事かを書き終わった後になって振り返ったとき、その言葉はいつも立ち現れた「思い」の影、シルエット、「思い」そのものというよりはやはり「間に合わせ」でしかない、そんな気がする。
 それでも何か書き表すのなら、賞味期限、消費期限の長い文章を書こう、どんな立場の人にでも届くようなと言葉を書こうと心を砕いていることを、良ければおぼえていてほしい。今年もよろしくお願いします。

Anker SoundCore Sport が届きました

 パソコン(Mac mini late 2012)の音をキッチンで聞きたくて、Bluetooth スピーカーの Anker SoundCore Sport を買って、今日届いた。

 Mac mini のあるデスクとキッチンは同じ1DKの中にあるのだけど端と端で離れていて、キッチンで家事をする時はデスクに背中を向ける格好になる。溜め込んだ食器を洗うべく、例えばニコニコ動画「洲崎西」なんか聴きながら憂鬱な気分を払拭しようとするのだが、いかんせん音が遠くて二人の馬鹿話が聞こえない。iPhone で聞けばいいじゃないかとあなたは思うだろうし、そうもしていたが、iPhone7 のスピーカーはさすがに小さすぎていらいらしてくるのである。何とかせねばなるまいとした結果、Anker SoundCore Sport である。
 少し前に必要にかられてモバイルバッテリーを買ったのだが、それが Anker PowerCore 10000 で、わりと気に入っていたせいもあって、Bluetooth スピーカーを選ぶのも自然と Anker 製となってしまった。 Amazonでの Anker 製はかなり評価が高くて、この Anker SoundCore Sport も600以上のカスタマーレビューに★4つ以上の評価だった。使ってみると確かに良い。音楽を聞くよりも人の声を聞くのに丁度良い気がしている。置き場所の問題でモノラルタイプを選んだのだけど、それも人の声を聞くのには良かったように思う。今もラジコで Tokyo-FM をAnker SoundCore Sport で聞きながら、このブログを書いている。いかにも昔ながらのラジオを聞いてるみたいだ。嬉しい。
 ちなみに Mac miniサウンドシステムは音楽再生用に特化していて、以下のような構成になっている。

 アンプがなんちゃって中華アンプなのは予算の都合だが、Audirvana Plus と nano iDSD のおかげでかなりストレスなく mp3 も DSD も楽しめている。スピーカーは DALI ZENSOR 1Cambridge Audio SX-50 の3つを候補にしていたのだけど(DENONKENWOOD も候補に挙げないところが嫌味ではある。予算が許せば FOSTEX GR160 にしたかったのだけど)、Monitor Audio がその名のとおり一番モニターライクな音だったのが決め手になった。CAVIN大阪屋で初めて買ったスピーカーだ。ごちゃごちゃ置いたデスクの両端に設置してもちゃんと定位してるから、まあまあ満足している。

映画『ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK』を観てきた

 北見のイオンシネマで上映するような作品でもないだろうから、旭川へ行くのはやむを得ない。映画の後に駅前のイオンで買物でもすれば、気分も変わるだろう。塞いだ気分を変えるのにぴったりに思えて、映画『ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK』を見に旭川ディノスへ行った。
 見る前に映画の感想を調べてみると、どれもほぼ絶賛の高評価だ。気分を高めようと、移動中の車内でビートルズの1stアルバムを聴きながら(歌いながら)劇場へ向かう。
 早朝最初の上映とあって、それほど観客数は多くない。14,5人程度というところか。
 正直に言うと、思った以上の感動はなかった。まあ、こんなものかな、という程度だった。もちろんジョン、ポール、ジョージ、リンゴの4人が画面で歌を歌っていれば、こちらとしてはそれだけで十分だったりする。曲が流れている間は(歌を歌う訳にはいかないようなので)体でリズムを刻んで楽しんだ。
 ただ映画の構成が、デビューから最後のライブツアーまでのライブ映像が主で、アルバムで言えばサージェント・ペパーズまで、次のホワイトアルバムからははしょって、いきなりルーフトップライブで映画が終わるものだから、ビートルズの公式ドキュメンタリーとしては、正直、食い足りない。キャバーン・クラブ、ハンブルグの苦しい時代から4人が一つになってイギリスを、アメリカを、そして世界を制した、というサクセスストーリーはごもっともな話なのだが、ブライアン・エプスタイン亡き後の迷走、4人の瓦解があってこそ、アルバム『アビーロード』、そしてルーフトップライブの感動があると思っている自分としては、はしょってしまったサクセスストーリーの後が見たい、というのが鑑賞後の感想である。
 まあそれでもビートルズの熱狂がどれほどのものだったのか、というのは嫌というほどわからされた。そりゃ凄かったんだろう。とはいえ、何となく老人の自慢話という感じもしないではない。
 東京とかみたいに劇場でビートルズに合わせて歌ったり歓声を上げたりできれば、もっと楽しめる映画じゃなかろうか。実はこの映画の後に、ニューヨークシェアスタジアムのライブをまるまる上映する二部構成になっており、確かにリストアした映像と音はかなりクリアになっていたのだが(最近やっと出たハリウッド・ボウルのライブCDも、昔と違って良い音になっているのだろう。アルバムで聞いた時の音は、歓声に紛れてかなり聞きづらかった)、こま切れながら見たことのある映像を30分黙ってみているというのは、ちょっと退屈だった(寝不足もあって10分ほど寝てしまった)。
 ビートルズファンであれば楽しめるけど、中期以降の崩壊するプロセスも見たいと思うのではなかろうか。もちろん、演奏する4人を見るだけで感涙してしまうのだが。本当に、何てこの人達は幸せそうなんだろう、と何度か涙腺が弛みかけた。でもビートルズを知らない若い人が見たら「凄かったんだな−」というぐらいしか、思わないのではなかろうか。

雨はむずかしい

 雨が降っている。

 今朝は午前五時すぎに起きた。前日の初夏のような暑さが夜になっても室内に居残り、すぐに眠りつくことができなかった。寝る時に聞いていたドラマCDの科白が、思い出したくない夢のように、浅い眠りの合間に聞こえてきた。そうして、強い雨音とともに目を覚ました。
 朝の散歩は出来ないかな、と思いながら階下へ降り、顔を洗い髭を剃り終えた。今日で四日続けて午前五時台に起きている。早朝に起きる習慣を身につけようとしているのだが、二度寝した日もあった。それでもとりあえず、今日も五時台に起きることが出来た。
 傘をさせば歩けるじゃないか、と思い直して父親の傘を手にして玄関に出ると、雨は止んでいた。ついさっきまでそこにいたんです、と言い訳するように、時おり水たまりの上に波紋が浮かび、すぐさま消えた。暑くもなく、寒くもない、歩くには絶好の曇天。
 運動にもならないほどの距離を歩いてセブンイレブンに着き、ホットコーヒーと無糖紅茶を買う。そして、来た道とは少しだけ別の道を気まぐれに選び、実家へ戻る。来た時には農作業だろうと思っていたのは、町内会の清掃作業だった。六十代と思しき男たちが、歩道を箒で掃いたり、草刈機で雑草を刈り取っている。
 歩道を掃いている男性の前を通る時に挨拶をする。挨拶し返した顔に見覚えがあったが、もちろん、名前など思い出せない。
 しばらくして、歩道橋が近づいてきた。もちろん、登ってみる。三十年近く昔の、学生時代以来だ。眼下を見渡しても、感慨も湧かない。
 ただの曇天。ただの日曜早朝。ただの俺。
 気づかぬほどの雨粒が思い出したように道路に落ちる。入りの悪いクラシックコンサートの終演後のようだった。
 それでも朝の散歩としては悪くない気分で実家に着いた。二階の部屋に戻り、まだ暖かいコーヒーを飲む。そして、雨のことを思う。
 前日の暑さを思うと、雨の到来は心良いものだった。早朝の朝は車の音もなく、騒がしいテレビの音もない。屋根に落ちる雨の音は静かで、どんなピアノ曲よりも心穏やかにしてくれる。今なら、日頃見落としていたことたちを、思い出してやることが出来るかもしれない。それは書くまでもなく、思い出されることもない日々の事柄だが、確かにあったのだ、と。
 第二幕を告げるベルなどなく、唐突に雨は強く降りはじめた。雨音は感傷的なメロディーをかなぐりすて、最初からそうだったじゃない? とでも言うように屋根を無機質に連打し続けた。どんな想念も情感もなく、雨は雨という事実としてのみ存在した。

 雨のことを思う。屋根を強打する現実の雨の音が耳に届く中で、雨のことを思う。確かに手にしていたものを、今も失い続けている。いや、手にしてなどいなかったのかも知れない。手にしていなければ、失うこともない。それが俺の生きる日々なのか。
 そんなこちらの思いなどおかまいなしに、また雨は小降りになる。隣の部屋で泣きべそをかく子どものような雨だ。ただの雨。ただの日曜。ただの俺。お気に入りの結末などない。