日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

それは良し悪しの問題ではなく

 この写真は、前回の小文をブックマークしていただいた(ありがとうございます)はてなid:wetfootdog さんのtumblrサイト「しな帳」で見つけたのだった。

 見た瞬間に「これは偽造だ」と思った。Photoshopか何かを使って、どこかの広告写真に天皇皇后を貼りつけたのに違いないと。
 この写真の初出がわからないため真偽は不明なのだが、この写真を引用しているサイトのほとんどがこの写真を偽造とは疑わず、今上天皇皇后の仲睦まじさ、お人柄を伝えるべき一枚として語っている。多くの人たちがこの一枚を肯定的に捉えているのに、どうしてわたしはこの写真を偽物と思ったのか。簡単に言うとこの写真が「あまりにもコマーシャルすぎる」からである。例えば、こんな広告写真は如何だろう。

 即席で偽造したのだが如何ですか。紙質の良いちょっとした高級紙にでも使われそうじゃないですか。さらにこんなのもどうでしょう。

 やっぱり旅行にはJALを使うだろうと思ったので、懐かしいロゴを探してきましたよ。どこかのおばさんが「あら素敵ねー」と言ってくれそうな気がしてきた。
読んだことのない小説家・大西巨人の有名な言葉に「俗情との結託」というのがある。「大衆におもねった通俗的な表現」ぐらいの意味になるのだが、この写真ぐらい「大衆におもねった通俗的な表現」もまたとないと思う。そう、そう思ったからこそわたしはこの写真を「偽造だ」と思ったのだ。「天皇がこんなに大衆的であっていいのか」と。
 しかしよく考えれば、戦後の天皇陛下のあり方など、戦前戦中までのそれに比べれば大衆化以外の何物でもないじゃないか。わたしのような昭和四十年代生まれ(というか学年的には三十年代生まれ)の人間にとって天皇といえば昭和天皇なのだが、最後の「現人神」であった彼の人は戦後であってもこのような表現を許されなかったろう(そもそも出来なかったろう)。「現人神」ではなく、陛下が「象徴天皇制」という制度によって成立する存在であるならば、今後も今上天皇は我々がかくあるべしかくあれかしと望む「我らが天皇」として表現されるのだろう。そしてそのように表現されたこの一枚が、わたしに自らの加齢を否応なく意識させた……というだけの話なのであった。それにしても実にカジュアルなお二人だなこれ。