日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

未だに事件の概要さえよくわかっていないのだが

母親を殺害したという福島での事件について、マック系のコラムも書く小田嶋隆が暖かい文章を書いているので。
*孤立力(偉愚庵亭憮録・コラムニスト小田嶋隆の日録ページ)

 例の会津若松の高校生が母親を殺害した事件について、思うところを述べておきたい。
 報道によれば、容疑者の少年は、中学校時代までは成績優秀でスポーツにも秀でた模範生であったのだそうだ。それが、生まれた町から離れた高校に進学してから様子が変わった、ということらしい。具体的には「暗い」「友達のいない」「何を考えているのかわからない」「孤立した」生徒に変貌した、と。
 なるほど。
 このテの事件が起こると、必ず繰り返される定番のストーリーだ。ネオ麦茶以来。いや、もっとずっと昔の、それこそ宇治拾遺の時代から連綿と続く挿話ですね。


 報道が事実に反していると言いたいのではない。きっと、取材してみると、事件の周囲にいる人々は異口同音にこのプロットに沿ったお話を繰り返すのであろうし、彼らがウソを言っているわけでもないのだと思う。
 ただ、私は、この「少年の孤立」という一つ話を、あんまり過大に評価することは、事件そのものの原因究明(←実際、この種の事件に関して、原因の究明なんてことが、本当に可能なんだろうか?)とは別に、日本中の教室と家庭に、誤ったメッセージを送ることになる気がするのだ。
 だって、少年というのは、多かれ少なかれ孤立しているものだからだ。
 でなくても、この種の報道の過度な反復は、内向的なタイプの少年に対する偏見を助長することになるんではなかろうか。

悪魔も神も自分自身の中にいて、醜悪さも崇高さもまた人の内にある。それはどれも他人事ではない。
わたしの感情を波立てた、近くの人も遠くの人も、すでにわたしの内にあってそれはわたし自身だ。


永遠を願う事しか出来ない者らに、他人の、そして自らの「時間」を止める資格なぞない。それは神のみが持つもの。


(Photo by Sonny)