日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

ユーザフレンドリー(仮題)

Human Interface Guidelines:The Apple Desktop Interface(日本語版)

Human Interface Guidelines:The Apple Desktop Interface(日本語版)

“ユーザフレンドリー”という言葉を考えている内に、昔読んだエッセイ集の、とあるエピソードを思い出した。少々長いが引用しよう。

イギリスに着いたばかりの頃、ロンドンの周辺部の高層団地を回っていて、たまたま子供の遊び場に入り込んだことがある。当時私には小さな娘が三人いたので、遊具類には自然と関心があり、イギリスに入るまえに回った北欧でも好んで公園や遊園地を見て回り、いいデザインの、しっかりしたつくりのものが多いのに感心したばかりだった。
その遊び場のすべり台も大きくりっぱなもので、すべり面には真鍮板が張られているというぜいたくさだった。日本に置いてきた娘たちがよく出かけていた近くの小公園のすべり台はもとは板張りだったのに、材質がわるくよくこわれるせいか、その頃は鉄板を打ち付けていた。鉄板は見た目にもよくないが、夏の日中など熱くてさわれないし、雨のあとは錆が出て、子供はすぐパンツのお尻を赤くして帰ってくる。
その点、真鍮板なら錆の心配はないけれど、しかし熱いだろうなと何気なくさわってみてハッとした。夏の日盛りというのにまるで熱くないのである。あらためて見直してみると、すべり台の角度、方向、手すりの高さなどを加減して、すべり面には日盛りの太陽が当たらないようになっているではないか。
多分偶然のことだろうと次のすべり台に近づいて息を呑んだ。次のも、またその次のも、五つばかりの思い思いの方向に置かれた(とみえる)すべり台のすべてが板面には陽が当たらぬように設計されているのであった。
  高橋哲雄「二つの大聖堂のある町―現代イギリスの社会と文化 (ちくま学芸文庫)」あとがきより

こういった、使う側に対しての恐るべき配慮が全体に行き渡っていることが“ユーザフレンドリー”なのだと俺は思う。
パソコンを「道具」として見た時、マックのハード・ソフトにはこういった配慮が行き渡っている。たとえばマックのデスクトップ上のアイコンが右側に並ぶのは、右利きの人間が使いやすいようにという配慮によると、以前何かの本で読んだ事がある。逆に左利きのユーザのために、純正キーボードなら左側にマウスをつけるためのUSBポートがついている。そういった統一性のある配慮がWindowsPCにあるかといえば、少ないと思わざるを得ない。特にWindowsXPの、デフォルトで立ち上がったデスクトップの配色センスのなさは、つくづくWindowsOSの共通仕様なのかと思ってしまうほどだ。それに加えて、WindowsのOSはWin95の時代からいつまでたっても起動時の画面からブラックアウト画面がなくならない。必ずどこかで白のプロンプトが表示されるのだから素敵だ。こういったところも、マックユーザから見ればかなりカッコ悪い。重箱の隅を突くようで申し訳ないが、それぐらい、出来るだろうさと思うのである。
じゃあ何においてもマックがサイコーなのかといえば、勿論そういう訳ではない。「道具」は使う人にあわせて作られるべきだが、使う人も「道具」に合わせていくという過程もある。
例えばOS9までマックには、パソコンの構造を端的に示す「ディレクトリ」をそのまま表示する、WinOSでいえば「エクスプローラ」にあたるソフトや表示機能そのものがデフォルトでは用意されていなかった。それはマックがパルアルト研究所のアルトを参考にして(剽窃して)自らのOSを立ち上げる際「フォルダ」「ファイル」という実際の書類とのアナロジーを採用したからである。そのためフォルダ内のフォルダを開くと必ず別の窓がひとつ増えて表示された。Windowsであれば開いた窓が一枚あれば、どのフォルダ・ファイルへもアクセス・表示出来るのに。
パソコンユーザがまだ少数であった頃は、フォルダを開く度に窓が増えるのは煩雑ではなかった。使う側にとって「フォルダを開いている」という現実のアナロジーが強いため、煩雑さを感じずに済んだのだ。しかし、Windowsの登場によって爆発的にパソコンユーザが増え、普通の人でも日常的にパソコンに接する機会が増えてきた時に、この「現実とのアナロジー」一辺倒だったマックOSは軌道修正を余儀なくされた。それがOS Xから標準用意された、ディレクトリを見渡せる「カラム表示」の登場だった。実はマックユーザの間でこの「カラム表示」の登場は、今までのマックOSの根幹をゆさぶる機能として物議を醸したのだ。しかしどう考えてもディレクトリ表示が出来る方が、現在のOSにとっては“ユーザフレンドリー”なのだ。
このように“ユーザフレンドリー”の内実はどんどん変更されていく。このことは、マックが自身のアイデンティティとしている筐体のデザインと中身(OS、プログラム)にも云えるだろう。
マックにとって筐体=外見と中身は分離不可能なものであって、それは人間が肉体と精神によって成り立っているのを体現しているようにさえ思う。ジョブスがアップルに復活した時に一番最初に手をつけたのが、マック・コンパチブルマシンの販売中止である。*1マックOSはただアップル社のマックのみで動く。マックの魂はマックと云う肉体にのみ宿る。この方向転換とiMacの登場がアップル社復活の礎になったのは歴史が証明しているが、その思想はやはり、現在の視点から見れば、あまりにも「人間的」だと云わざるを得ない。

*1:昔はパイオニアがマックOSで動くマシンを出していたんだぜ