日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

「旗浜」のこと

hirofmix2005-04-01

(なおこれはフィクションである)
新潟県直江津から名立の間に、土地の人たちが「旗浜」と呼ぶ浜辺がある。厳寒な日本海に面し、波頭の先に佐渡を眺めることが出来るその浜辺に昔、数百本近くの黒い旗が突き立てられたからだという。今も国道8号線を走ると、海風に煽られ吹き千切られた何本かの旗を見ることが出来る。
僕がその「旗浜」を初めて知ったのは、学生の頃によく読んでいた坂口安吾の小説の、確か「風と光と二十歳の私」が収められた角川文庫の解説だったと思う。学生だった安吾が学校をエスケープし、よく浜辺に寝転んで波音を聞いていたという有名なエピソードがあるのだけれど、安吾が心慰められたその浜辺というのが「旗浜」だったのである。
(なおこれはフィクションである)
そのそも「旗浜」の謂れは、江戸時代の百姓一揆なのだという。
度重なる凶作と飢饉、年を追う毎に重くなる上納米に喘いでいた百姓達は、その年の冬、ついに藩主に謀反を起こす。最初の雪が海風とともにその地を吹きすさんだ深夜、灯一つない集落に松明がひとつ、ふたつと灯され、暗い目をした男達が、鍬や鋤を手に城へと向かった。
数百とも、古文書によっては数千とも記録されているのだが、漆黒の闇の中、謀反に結集した男達は、自らを鼓舞するため、また敵と仲間とを見分けるため、各々がその腰に幟旗を縛りつけた。灯明の列は夜道を煌々と照らし、藩主の城が見える浜辺に出た時には、秋祭の夜のように明るかったと云う。海からの風と雪に煽られる旗の群れ。砂浜を歩む重い足取りと波音、そして風にはためく旗の音が、謀反者達の耳を聾していた。
そして、彼等は見るのである。その松明の光の先、暗い浜辺の向こうに、何十頭もの黒い馬と、合戦の出で立ちに身を包んだ武士達の一群を。血判状まで書き記した男達の誰かが、この謀反を藩主に通じていたのだ。
一瞬にして海鳴りのような咆哮は風音にかき消された。
(なおこれはフィクションである)
百姓達は夜が明ける前に浜辺に切り捨てられた。
彼等の旗が卒塔婆のように、倒れた骸の横に突き立てられた。
その日の朝は風ばかりが強い日本晴れだったという。
朝日に照らされた無数の黒い旗が、千切れ叫ぶようにはためいていたという。
中天に日が昇る頃、浜辺に積み上げられた旗と骸に火がつけられた。
火は三日三晩かけて燃え続けたという。
(なおこれはフィクションである)
その陰惨な顛末から、地方史家ぐらいにしか知られていなかったというこの謀反以来、その藩に一揆が起こることはなかったのだそうだ。ただ、飢饉が起こる度に、その浜には朝になると、無数の黒い旗が何ものか達の手によって突き立てられていたという。この暗い風習は江戸幕府の瓦解後も続き、明治、大正そして昭和、さらに戦後でさえも絶えることがなかった。世情が不安と不穏に満ちた時、その浜辺には人知れず旗が突き立てらるのだという。
(なおこれはフィクションである)
これが僕の知る限りの「旗浜」の謂れである。
一言書き加えておくと、今この「旗浜」で見る事が出来る旗は、直江津市が用意したものである。「旗浜」という名称に目を向けた市の観光局が、市の観光スポットにすべく、市の財政を投じて設置したのである(そのすぐそばには観光用の海鮮食品市場もある)。おまけにその旗というのがいわゆる“大漁旗”らしく(まぁ黒い旗ではマイナスイメージに違いない)、観光客はともかく地元の人にはすこぶる評判が悪いらしい。
管理の悪さから立てられた大漁旗はいい感じに千切れているそうなのだけど、そんな旗の中に何本か、市の職員の目を盗んで黒い旗が立てられている時もあるそうだ。誰が立てているのか知らないけれど、その暗い情熱を目の当たりにするためにも、一度見に行ってみたいと常々思っている。
(しつこいようだがこれはフィクションである)