日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

C定位に立った男

二月に札幌へ行ったのは前にも書いた気がするのだけど、その時にいっしょに飲んだアメリア氏と、ホテルへの帰りに珈琲でも飲もうと宮越屋系の喫茶店に入った。
店の入口を開くと、すぐそこにB&Wの"Nautilus 802"が置かれていた。セットで150万ぐらいするスピーカーだ。
ノーチラスから流れていたのは、いかにも薄暗い喫茶店に流れていそうなジャズだった。そもそも狭い店内で、しかも左右のスピーカーの間隔がたぶん50cm程度しか開いていないのもあって、僕自身にはそれほど良い音だと思えなかった。低い椅子に座ると音楽は向こう側の壁から反射して聞えてきた。決して良いリスニング環境ではなかったのだ。
しかし事件は、その店を出る際にアメリア氏を襲った。
アメリア氏がなかなか外へ出てこない。振り返ると、入口のそばにあったノーチラスの後ろ側をきょろきょろとのぞき込んでいる。
しばらくしてアメリア氏が店から出てくると、ひどくとまどった表情であのぉ…と、わたしに問いかけてきた。「hirofmixさん、今の音楽は、あのスピーカーから、音が出てきてたんですよね?」
 
ああ、ついに彼は踏み込んでしまったのだ。
オーディオの世界に、それとは気づかぬ内に片足を突っ込んでしまったのだ。
 
質の高いオーディオ(最近の、といってもいいと思う)から聞えてくる音は、たとえ音量を上げようともスピーカーから音が鳴っているようには聞えてこない。その音は、ちょうど左右のスピーカーの中央、その後ろの方で音が鳴っているように聞えるものだ。そのありようは「音の場」がそこにある、と言っていい。あたかも音そのもので出来ているような空間が、スピーカーの後ろに生じるのだ。
そういったステレオ体験を一番ストレートに感じられる場所、絶好のリスニングポジションを通称「C定位(センター定位)」という。そう、アメリア氏はスピーカーの間に生じるC定位にはからずも立ってしまったのだ。
この快感を一度でも体験してしまったらもう後には引けない。私が今まで何度となく言葉を費やしてオーディオの快楽を伝えても、懐疑的な事悪魔の如きアメリア氏はいつも「でもそれはhirofmixさんが音楽好きだから…」「いやでも結局生演奏には適わないでしょ?」「僕はそんなにいい耳持っていませんよ…」等と私の言説を常に忌避し揶揄してきたのだが、事ここに至ってこの偶然(それは運命なのだよ、アメリア君)がアメリア氏にオーディオという引き返せない快楽を教えてしまったのだ(そう、もしアメリア氏が今もまだオーディオに手を染めていないのだとしても、それは“引き返した”のではなく“立ち尽くしている”のである)。
独身である彼が今後手にするであろうお給金の使い道が、コバルト文庫大人買い以外に増えるのではないかとひどく楽しみな昨今のわたしなのである。走り出したなら、きっと私以上にディープなオーディオマニアになることは目に見えている。
ほくそ笑む事天使の如き私は立ち尽くす彼にこう伝えよう。
いつでも相談応じます、と(笑)。