日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

「今、僕は語ろうと思う」

読書人口が減ったなんていう話はよく耳にするけれど、実際には「文字」を読んでいる人の数は、きっと十年二十年前以上に増えているんじゃないか。googleで検索された「生首に聞いてみろ」の書評をチェックしながら、しみじみとそんなことに思い当たった。この話もまた、どこかで聞いたような気がするけれど。
ようするに自分が最近本を読まなくなったのには、生活に負けてその時間を作れないことや、年齢が高くなるにつれ生じる、物事への関心が薄くなる傾向や、今その理由をこれだとひとつに決めることができないのだけれど、そこにもうひとつ、そもそも日常「文字」を読みすぎているからじゃないか、という言い訳ができあがったのだ。
何事についてもその人なりの「適正値」があるだろう。もしかしたら僕は、自ら「文字」を書いたり読んだりしている内に、情報摂取の「適正値」をいま大幅に越えているのかも知れない。最近のウェッブの見方はもうテレビのながら試聴と変わらない気がするし、自分が書く「文字」に対しても、それが自らの「言葉」として育まれない内に、ウェッブという表へと吐き出している気がしている。
 
最近、ここヒロクロの過去の日記を後で手直ししたり、過去の日記そのものをつけ足したりすることが多くなった。そうなんですよ実は文章が微妙に書き直されているんですよ。何度読んでも楽しめますねええ(笑)。ウェッブにこういう文章を書き出した頃は、そういう作業が“言い訳”めいて潔しとしないところがあったけれど、最近はどうしたことか、そういう“後の作業”が楽しいのだ。
手直しした文章が、元の文章の論旨から180度変わる事はない。あくまで文章の手直しだから。その作業が楽しい。
非常にどうでもいい話なんだけど、僕自身にとってはそうではないんだ。
 
  いつか、僕たちは語り出すだろう
  水晶の言葉を手にして

 
この言葉をノートに書いた二十代の頃、言葉は泉から尽きることなくわき出るように思っていた。