スガシカオと井上陽水を結ぶ線
いやそもそもはグラサンをかけているスガシカオと昔の陽水のイメージが重なるなぁ、というただそれだけのことだったんだが、この二人を結ぶ線を意識させたのは、先にも書いた村上春樹のスガシカオ評だった(季刊「STEREO SOUND」153号「音楽のある場所」第8回「スガシカオの柔らかなカオス」366ページ中段より引用)。
そこ(スガシカオが描く世界:筆者注)に示されているのは、簡単には抜け出すことのできない世界だ。同じところをいつまでもぐるぐると回り続ける世界だ。そういう世界のあり方に、主人公はほとんど嫌気がさしているのだが、出口は簡単には見つからない。あるいは出口はすぐ近くに見えているのだけれど、立ち上がってそこから出て行くだけの気持ちを、どうしても奮い起こすことができない。外に出て行くのは、なんだか億劫だ。また意を決して出て行ったところで、そこに彼が見出すものは、こことほとんど変わりのない世界かもしれない。そこではやはり、ものごとがぐるぐると同じところを回り続けているのかもしれない。そんなわけで、主人公としてはとりあえず、今ここにある狭い場所に留まって、ぬるぬるとしたまわりの事物を触りながら、自分がまだ実在していることを確かめている以外に、やるべきことがない。そして、現実的な行動が限定されているぶん、そして日光が不足しているぶん、思考はわりにあっけなく観念的な横穴にするりと潜り込んでしまうことになる。
ここで村上春樹が説明しているスガシカオの世界は、僕にとっては井上陽水の世界と同様のものだ。出口もなく入口も見失い、ただそこにいるしかない世界。脳みそいっぱいに膨れ上がった妄想と観念が夏の熱気と湿気でじくじくと膨れ上がるままの世界。まぁだから今回「TIME」を手に取ってみたのだけど、聴いている内にこんな歌詞にぶつかって予感はさらに強まってくる。
眠らなきゃと思うと 余計に目が冴えた
知らないうちにちょっとだけ ユメに落ちていた
窓の外では“みかん売り”の枯れた声
遠くにいる母親の 声色に少し似ていた
(スガシカオ「あくび」)
窓の外ではリンゴ売り 声を枯らしてリンゴ売り
きっと誰かがふざけて リンゴ売りの真似をしているだけなんだろう
(井上用水「氷の世界」)
目覚まし時計は 母親みたいで心が通わず
頼りの自分は睡眠不足で
(井上陽水「東へ西へ」)
これはもう決定的だ。そうなると「クライマックス」の歌詞「最終電車に乗って」というフレーズさえ、井上陽水の「夜のバス」を連想させてしまう。いやもう「センチメンタル」とか「氷の世界」とか「断絶」とか初期の井上陽水の描く世界っていうのは、本当にもうどうしようもなくひりひりしてて、そこが何より一番だったんだ。
そこでまあいつものGoogleで「スガシカオ 井上陽水」で調べてみると、"bounce.com"のスガシカオのインタビューにこういうのがありました。おお繋がった♪ 「氷の世界」をファンキーと評するのはなかなかだと思う。おまけに同じはてなダイアリさんにも同様の指摘がありました。なぁんだ、わりとみんなこの二人に近しいものを感じていたんだ。不覚。
もしかしたら、長いつきあいになるかしら中山恵美子スガシカオ。今日は長文でしたね。書きたかったのよ。