日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

KILL BILL キル・ビル

神に会っては神を殺し…
差別される者、虐げられる者は、富める階級にも貧しい階級にもいる。富める国にも貧しい国にも。
その意味においてこの映画はアメリカ映画である以上に世界映画である。

Google で検索してみても、クエンティン・タランティーノのまとまった経歴、生い立ちが見つからない。彼の詳細な経歴が是非とも知りたい。大体彼は白人なんだろうが、何系なのだろう? どういう階級に生まれ育ったのか? 彼が偏愛してやまない、そして今回の映画で全面に登場するカンフー映画やヤクザ映画、マカロニウエスタン、怪獣映画に日本のアニメ、どれだってアメリカの、いわゆる恵まれた白人の家庭環境でセレクトされるような映画やテレビ番組ではないだろう。
これはあてずっぽうなのだが、アメリカでどの人種より悲惨だと云う "Poor White(貧しい白人)" の淀む家庭環境が選ぶ映像娯楽ばかりではないだろうか。そこで描かれるのは、もちろん美しい作品だってあるだろうが、その多くは暴力とエロス、怪奇と悪趣味が下世話で無教養なまでに塗りこめられた作品だ。恵まれた白人たちが、恵まれた階級の者たちが深夜道徳と云うカーテンに隠れながら、その隙間からこっそりと覗きたくなるものばかりである。
そして暴力とエロス、怪奇と悪趣味は、どれも子どもが喜んで止まないものでもある。そして子どもは、その国その社会その文化を担う大人から差別された存在である。そして子どもにとって道徳は大人が与える鎖でしかない。道徳の埒外にあるものこそ彼等の世界だ。
階級的差別と年齢的差別、その被差別の側から差別する側へむけて突きつけられた映画と云う名の刀、それがこの映画であると、ひとまずはいえるだろう。
上の文章の「被差別の側」を「非ハリウッド映画」、「差別の側」を「ハリウッド映画」と言い換えても良いだろう。そう、今回の映画でタランティーノが切りつけた刀は、何もかもハリウッド映画が真善美とするヒエラルキーの最底辺、周縁、埒外のものばかりだ。何でも今回の作品は、本国アメリカでの評価が真っ二つに割れているそうだが、それはそうだろう。彼等が切り捨てているもの、切り捨ててきたもの、彼等の文化の埒外にあるものばかりなのだから。

そして、それらはかなり凄いのだ。
「おしゃれでクールな映画を見るつもりがVシネマを2時間見せられた……でも、死ぬほど凄かった」というのが、とりあえずの感想といえるだろうか。冒頭の回想シーン、ナンシー・シナトラがこの映画のために歌ったとしか思えない名曲「バン・バン」から前髪をつかまれ背中を押され、暗殺者の吹くバーナード・ハーマン作曲「密室の恐怖実験」の口笛に心底おびえ、「吸血鬼ゴケミドロ」の異様な色の夕焼けの中、今どき釣りものの飛行機で主人公が降り立つ怪獣映画「サンダ対ガイラ」の東京に眩暈し、88人もの刺客を劇画「子連れ狼」のように斬り殺し、梶芽衣子のド演歌「恨み節」が流れるエンドロールまで、瞬く間もなく二時間は過ぎ去った。勿論来年春上映されるというパート2も絶対に見るとすでに心に決めている。

今の私にはこの作品をいい悪いと判断する事は出来ない。まだ面白いとさえ言えないでいる。タランティーノがぶち込んでくるペニスとスペルマに圧倒され、途切れる事なく訪れるはずの(訪れているはずの)オーガズムさえ奪われていると云っていい。何度でも、何度でもその「愛」を受けとめたいと欲望しているにも関わらず、その「愛」がわたしをどこへ連れていくのかがわからないのだ。そして彼タランティーノがどこへ行こうとしているのかさえ。それはこの映画に出演した俳優達が、今後の映画人生においてステータスになるのかどうかもわからないのと同じだ。けれどもこの作品には間違いなく、映画というものの、それ自身の洗練によって失われる(失われた)面白さばかりが充満している。

まず間違いないと私は思うのだが、この映画を完成させ世界中に配給した時点で、タランティーノは“勝った!”と確信しただろう。町山智浩が映画評で書いていたように(雑誌「Invitation」2003年11月号122ページ。良い文章です)、彼は叫んだに違いない。「今のお前らにはわからないだろ。これはオレのための映画だ!」