日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

ピュアな批評とはこういうものである。

綾波レイが表紙を飾ってます大人は判ってくれない 野火ノビタ批評集成」(著:野火ノビタ 発行:日本批評社 価格:1,700円+TAX ASIN:4535583676)。マンガ家榎本ナリコこと野火ノビタの評論集である。批評の対象になっているのは「新世紀エヴァンゲリオン」「幽★遊★白書」と「ヤオイ」。おいらは「幽★遊★白書」をマンガもアニメも知らないのでここのページはとばし、エヴァヤオイの章だけ読んだ。特に感心したのはヤオイの分析である。ボーイズラブものとヤオイを区別する分析で、ヤオイカップルが“去勢された男=受け”と“去勢したペニスをつけた男=責め”と論じ、その作り手・読み手としての女性がこのカップリングによって初めて自らの性を差別・区別されず、相手と対等な関係の中で欲望の主体になれる、という発言は興味深かった。女性が欲望の主体になりきれない、常に欲望される側=客体であるのがその身体構造=ペニスの不在というのはおいらも考えてはいたけれど、女性自らが理路整然と(それも高校卒業程度の読解力があれば読める文章で)書かれているのはなかなか得難い読書体験だった(うう、手元にその本がないんでちと文章が弱いぞ)。
読みながら思い出したのは、20代の頃に読んでいた雑誌「rockin' on」だった。結局、と云ってしまうとあまりに批評それ自体を矮小化してしまうが、やはり少なくともおいらにとって“批評”とは「私とは誰か?」という問いかけがそのスタートなのだと思う。この作品に感動・共感してしまっている自分とは何者か? その謎への冒険が、言葉を批評へと形作らせるのだ。今はよく知らんがおいらが読んでいた頃の「rockin' on」の批評は、主宰の渋谷陽一がそうだったように、客観的分析よりも主体的な分析がメインだった。自分にとって、という取り換えのきかない設問への真摯さが、その批評文の精度を保証するのだ。この「大人は判ってくれない」という批評集成もまた、いわゆるオタクのジャンルに含まれる作品やジャンルを、ただ自分の問題として問いかけている。はっきり云ってしまうが、おいらはこーゆうのを読みたかったんである。同人で出している他の批評集も読んでみたいぞ。