日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

「ニューヨーク市議、議場で射殺される 政敵が短銃乱射」

たわむれにウェブ見てると、こーいうニュースにぶちあたったりしますな。もともと、アメリカで銃が気軽に買えちゃったりするのは、外敵から自分を守ることの現れであり、そしてそれは体制に対しても対抗出来るという「自治意識」の現れだとかいう話を聞いたことがあるんだけど(アバウトだな)、やっぱさー、うーん、そりゃ高邁な理想によるものだろうけど、謝ることが不可能な(=誤って命を奪う)状況を手軽に作り上げてしまう道具が自由に手に入る社会というのは、やっぱ間違えてるよ絶対。人の愚かさは肯定されるべきだ。謝れなかったら、許されることは不可能じゃあないか。それは愚かさを容認しない事になるじゃあないか。住みづらいぞそれ。
ただこういう報復処置っていうのは、われら人間どもにとって一番ビビッドな感情の発露な訳で、その感情の発露それ自体が人間から失われる事によって、こういった報復処置がこの世から消え去ったのだとするなら、その世界に住んでいる人間っていうのは、おいらが考えるわれら「人間」じゃあないんだよな。
こういう事件を知ってしまうと、やっぱ人間って云うのは何万年経ってもそう易々と変わらないということがわかってしまうねー。だから「歴史を学ぶことが今を知ることだ」という言葉が、真理であり続けている訳ですわね。

でもやっぱり、銃口から放たれるのはポップコーンが素敵。