日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

「吉田司対談集 聖賎記」

いま現在、わたしが最も信頼しているノンフィクションライターは、「誰が『本』を殺すのか」の佐野眞一、それ以上に吉田司である。まずは「宮沢賢治殺人事件」読めよというぐらいの圧倒的筆力で、宮沢賢治の持つ全体主義的な危うさを描いて「宮沢賢治伝説」を粉砕し、「ひめゆり忠臣蔵」では不可侵地帯と化した沖縄の聖域であり“ブランド”でもあるひめゆり部隊の内実を白日にさらしと、少々アナクロな戯作調文体で現代の諸問題を描ききるライターである。で、今回はその対談集とあって当然納本したのである(いやちゃんと吉田司ファンがうちにもいるんだって)。
ざっくり読み飛ばしてみて一番面白かったのは宮台慎司との対談。リベラリストを(戦略的にと言っているが)標榜していた彼がこの対談では自らをあのアジア主義」だと宣言する。やばくないかそれ。いやぁ前評判でその話題は聞いていたが宮台先生、言ってることは的確でわかりやすいし納得いくものなんだけど、アジア主義の背後にあるアンチ・プラトニズムの称揚、すなわち論理より情動を世界理解(というより体験)の上位に位置付け「ロジカルなものやイデア的なものが一挙に雲散霧消するような、官能の渦や情動の渦(337ページ宮台発言)」への感受性である「眩暈体質」を肯定し、その「眩暈体質」が保障されるべき「聖性」を、究極的に「聖性」を否定する「近代」において、また「垂直性」を指向する「聖性」のない「水平性」を旨とする日本において、その「聖性」を、過去日本が持ちえた垂直性のある「聖性」、すなわち近代天皇制と、それによる大日本帝国の過ちとは違う方法でどのように構築するかってーのは、確かに今後の日本文化(そして政治)を語る上では必要不可欠なものと、自分自身が「眩暈体質」を持っていると思うわたしなんぞも納得するのですが(国家や文化、自分を「取替のきかないもの」と規定するなら「聖性」はどうしても必要になる)、今までの宮台先生の発言フォローしてないんでわかんないけど、ここでの宣言は時期的にも内実的にもちょいと勇み足じゃあないのか? という気がしないでもない(そこいらへんは宮台ファンのフォローよろしく♪ いやぁ、何だかそれらしい文章だよなここまで。単純に細かな説明部分をふっとばしているだけなんだけど)。論理の切れ味鋭い(それは読んでいてよくわかる)宮台先生だけに、その論理もふっとんだところで稼動する「眩暈」とそれを保障する「聖性」が、いつ大政翼賛的な情動の流れに組み込まれるかなんて、返す刀のロゴスの力で押さえきれるのだろうか。情動の前にロゴスなんて蟷螂の斧でしかないからねー(だから情動なんだから)。でもまぁ、今回の発言によって、おいらにとって宮台が射程距離に入ったという(すなわち「読める」という)感触は得られました。