日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

次数を繰り上げる

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

内田樹の文章を読んでいて思うのは、思考の論理展開が橋本治にそっくりだという事である。例えばこの文章に登場する「問題の次数を一つ繰り上げる」という部分。やや長いが引用する。

 私が本書で論じたのは、「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」という問題である。そのことだけが論じられている。
 この問いに対しては、「ユダヤ人迫害には根拠がない」と答えるのが「政治的に正しい回答」である。だが、そう答えてみても、それは「人間はときに底知れず愚鈍で邪悪になることがある」という知見以上のものをもたらさない。残念ながら、それは私たちはすでに熟知されていることである。
 この問いに対して、「ユダヤ人迫害にはそれなりの理由がある」と答えるのは「政治的に正しくない回答」である。なぜなら、そのような考え方に基づいて、反ユダヤ主義者たちは過去二千年にわたってユダヤ人を隔離し、差別し、追放し、虐殺してきたからである。
 ユダヤ人問題の根本的なアポリアは「政治的に正しい答え」に固執する限り、現に起きている出来事についての理解は少しも深まらないが、だからといって「政治的に正しくない答え」を口にすることは人類が犯した最悪の蛮行に同意署名することになるという点にある。政治的に正しい答えも政治的に正しくない答えも、どちらも選ぶことができない。これがユダヤ人問題を論じるときの最初の(そして最後までついてまわる)罠なのである。
 この罠を回避しながら、なおこの問題に接近するための方法として、私には問題の次数を一つ繰り上げることしか思いつかない。今の場合、「問題の次数を一つ繰り上げる」というのは、「ユダヤ人迫害には理由がある」と思っている人間がいることには何らかの理由がある。その理由は何か、というふうに問いを書き換えることである。(6〜7ページ。強調はhirofmix)

橋本治もまた回答の困難な問いに対して次数を繰り上げながら答えようとした書き手である。それは問題に近づくための方法なのだが、その問題がなぜ問題となるのかというより総体的な問いかけでもある。