日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

たったひとつの


 愛おしい、という感情を喚起される作品のひとつとして、紹介したいと思う。作者が希望するような言葉となるかどうかは心もとないが。しかしラブレターというのはそもそもそういうもので、書き手の「伝えたい」という思いが強ければ強いほど、当の相手が求めるものから遠ざかっていく。お許しを願いたい。
 人は誰しも望むものになりたいと願いつつ、自らの運と才能、才能を開花させる努力を結実させようと日々暮らしている。しかし人には、そももそもが結実できない願いもまたある。それは生まれ、血筋、すなわちダースベーダーである。
 人は誰も、自ら望むようにダースベーダーになれる訳ではない。その願いはそも間違えている。間違えているからといって願うのを止められればこれほど楽なことはない。しかしその願いを現実に結実しようとすれば、それは子どもたちが日々過ごす「ごっこ遊び」に限りなく近づいていく。
 ごっこ遊びとは「信じれば世界は変わる」という特権的時間のことである。この映像にはその「ごっこ遊び」と、その特権的時間の終焉を見守る母親のごとき視線とがともに記録されることとなった。そしてそこに、栗コーダーカルテットの名演奏、名アレンジが接続されたからこそ「作品」足りえたと言いたい。音楽にも通低する稚拙感があればこそ(例えばそれは、結果でしかないだろうが、映像の手ぶれにも現れている)何故のどかな公園にダースベーダーという存在が許されるのか、その意味が納得出来るのである。
「プライベートであるからこそ伝わるものがある」というのを如実に教えてくれる映像の一つとして、あなたの記憶にもそっと忍び込ませたいと思う。そして世界にはそんな思いが満ち溢れていることもまた、日々の暮らしの中でふいに思い出してほしいことのひとつである。それが「愛おしい」ということなのである。