日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

身を持ち崩さない程度の「貧しさ」は金持ちの特権である。

そうとは見えないと思うが、俺はこれでも悲観主義である。根が楽観主義者な故、あらかじめ物事を悪い方に考えるように心がけている、そういう意味での悲観主義である。いやそもそも、誰もが何十年も年を重ねると、自らの暮らしぶりを振り返って「明るい」「暗い」のふた色で分けられるとは思えなくなるのではないか。禍福は糾える縄の如しと云う。鈴木慶一高橋幸宏とともに「アクセル踏みながらブレーキ踏む」と歌った。そんなものである。
2006-03-18
資本主義と云うエンジンにとっては、人間の無制限な欲望が無尽蔵なガソリンである。欲望が個体の生命活動を基礎におくなら、ガソリン供給は個体が死ぬまで止むことはないし、欲望は観念であるから肉体と云う限界がない。限界のない観念をなだめるために、資本主義はあらゆる商品=形あるものを産み続ける。そしてそれは溢れるかえるほど存在しなくてはならない。何故なら、ひとつの商品を選ぶためには複数の商品がなくてはならず、複数の商品がより大量であればあるほど「選び取った」満足感=欲望の充実度は高いからである。
この考え方自体が、そもそも間違えていることを、高度資本主義社会に生きる私達は、漠然と、知り尽くしている。何故知り尽くしているのか、それは生まれてこの方商品があふれかえる世の中を生き続けてきたからである。そんなものだから「スロー・ライフ」なんて言葉が注目される。無農薬野菜を食べたいと思う。でもそれはこの溢れかえるほどの商品があるからこそ生まれた方丈記であることを、鴨長明でない我々がどこまで噛みしめているだろう。いやこう問いかけてみてもいい、鴨長明の認識だけをもって、腹の底から鴨長明になり切れない我々にとって、いったいどんな暮らしぶりがありえるというのか、と。それでも汝は地の塩になれるのか。


それでも急がずに考え続け、出来る範囲の事をしていれば、いずれ誰もがサンダルを履くようになるだろう。