日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

とりとめもなく書いてみる

Careless Love

Careless Love


すでに一部で「ポスト・ノラ・ジョーンズ」とか「ビリー・ホリデーの再来」とか云われているマデリン・ペルーであります。おなじみの和田博巳氏が「季刊STEREOSOUND」誌のレコード評で取り上げていたので、さっそくいつものタワレコで買ってみた。
黒い。黒いなぁ。このボトムの低い、肺活量の大きいそうな彼女の声を聴くと、ノラ・ジョーンズがやけに可憐に思えてくる。少女と女の違いだなどと云いたくなりそうなんだけど、何を云ってるやら、マデリン・ペルーだってまだ若いのである。20代でよくこんな深みのある声が出てくるものだと思う。
一曲目の"Dance to the end of the world"こと「哀しみのダンス」の音が聞こえてきたきた時には、その厚ぼったいサウンドに一瞬驚いた。大体どの曲ももわっとした空気感があって、古いモノーラルのレコードを思わせる音作りがなされている。多分に意図的なそのサウンドデザインは、だけどもそういった作り手側の作為性を感じさせない。こもった音とは云っても、ちゃんと各楽器の位置が音からちゃんと感じとれるのだから、そのあたりの音作りのセンスは絶妙といっていい。後もう少しバルブをゆるめたら、ひどくあざとい音に聞えたに違いない。彼女のこのCDを評して「懐かしいのに新しい」なんて云うのは、そこいらへんのニュアンス故だろう。
曲の良し悪しをどうこう云うところまで正直聞き込んではいないのだけど、それでもレナード・コーエンのカヴァーである1曲目、そして続く2曲目のジェシー・ハリスとの共作"Don't wait too long"なんかはいいと思う。それこそジャズ・スタンダードを思わせる耳に易しいメロディーにみっちりと果汁が詰まった音、くわえて深みのあるマデリン・ペルーの声を聞くと、するすると聴き続けてしまう。
しかし最近俺はよくレナード・コーエンの曲を耳にするな。聴いてみようかしらんいずれ。


What Comes After the Blues

What Comes After the Blues


これは当たりだった。タワレコで展示されてたジャケットに魅かれたのと、プロデューサーが嶋護ご推薦のスティーブ・アルビニだと知って試聴してみたのだが、これが大正解だった。
まず1曲目の"The Dark Don't Hide It"からして「もうこれしかない」という決定的な音が出てくる。異常に簡単に云うと70年代アメリカンロック、ニール・ヤングなんかを彷彿とさせる音なんだがけど、それぞれの音の存在感、実在感がただ事ではない。各楽器の音、アレンジ、どれも代換えのきかないサウンドとして放出されてくる。すべての音がその曲の為に存在している、と口走りたくなるような完成度の高い音だ。
続けて2曲目"The Night Shift Lullaby"を試聴した時点で僕はもうノックアウトだ。その女性ヴォーカルの声がその曲の「核」といっていい。その声を何て言えばいいだろう。
最初に祈ったその切実さもその訳も、怠惰な日常となって過ぎていく日々。その日々の中で惰性となった<祈り>。
状況は変わらないという諦念と、その諦念を決定づけている絶望感。その絶望感を普段着として暮らす女が、遅い午後の目覚めの後に飲む、最初の水道水のような<祈り>。
そんな<祈り>としての声。
なんて長い比喩なんだ。比喩というか、すでに比喩とは云い難い。ただの説明である。
どの曲でも、その音が描き出すのは、アメリカ的としか云いようがない荒涼とした空虚だ。名付けようのない者たちに奪われ、犯され続け、立つ場所を亡くした者たちが持った世界観。それが藁だとわかっているのに、救いの手だと信じる事を止められない者たちの自画像。
だからこのCDをずっと聴くのは、かなり疲弊する。精神が健康であるための体力を1曲毎に奪われていくようさえ思う。それでも
これは名盤である。