日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

「ハサミ男」

殊能将之ハサミ男講談社NOVELS(定価980円+TAX)
やっとのことで読了。最初は全然読めなくて、一度は図書館に返したのだが、再度読み直そうと第一章まで読んだところでドライブがかかり(この小説は、アラビア数字の章と「第○章」との二重構成で進んでいく)、後は最後まで読み通せた。しかし裏表紙の惹句の最後「ミステリ界に妖しい涼風が!」には笑った。それはいったいどんな風だろう。晴れた午後の中庭に出たとき想像してみたが、「妖しい涼風」とはどんな風なのかは想像できなかった。
マスコミを賑わせた「連続美少女殺人事件」、のどに突き立てられたハサミからマスコミはこの殺人者を「ハサミ男」と名付けセンセーショナルに扱った。その「ハサミ男」本人が、次の美少女をつけ狙っていた矢先、その「ハサミ男」の犯行を真似た犯人がその美少女を殺害、「ハサミ男」はその発見者となってしまう。殺人願望と自殺願望を抱えた「ハサミ男」は、その美少女への興味からも、自らの事件を真似た真犯人を捜す羽目に陥る……動機なき殺人、快楽殺人を行う殺人者の、僕たちが安易に夢想する「内面」への興味を惹きながら物語は進み、結局その「内面」の輪郭だけが浮かび上がる構成には感心してしまった。特に292ページの最後「きみがハサミ男だったんだね。さあ、ぼくといっしょに来てくれないか」からの幻惑感にはかなりやられた。
しかしそのソリッドで堅牢な構成は、読み終わって「面白い!」という言葉さえ憚られるほどに完結しきっている。魅力的な装飾の施された塔を外側から検分し、その設計図までも読み終えたにも関わらず、塔の中には入れない、そんな感じだ。「人の心の闇」と言い習わされる何か、その「人の心の闇」が引き起こすという犯罪。推理小説だから犯罪に至までの謎(How=どうやって)は解かれるが、犯罪を引き起こす謎(Why=なぜ)は、ついに解明されない。この小説は“「なぜ」は解明されないのだ”という事を解明するために書かれた小説と云っていい。塔の中には入れない、というのはそういう意味だ。そもそも誰も塔の中には入れないのだとさえ宣言しているかのようだ。それが塔の持ち主でさえも、と。
そのことは、殺人と自殺を繰り返す「ハサミ男」と、調べていくたびに謎が深まっていく殺された美少女、その二人の描写によって解明されていく。この二人は相似形である。そのことを「ハサミ男」は無意識に理解していたのだろう。だから「ハサミ男」は彼女を殺した真犯人を捜す羽目に陥るのだ、より彼女に近づくために。勿論すでに死んでいる美少女と「ハサミ男」が邂逅することは叶わない。それは「ハサミ男」の幻想によってのみ叶えられる。この章(アラビア数字20の章。264ページ)はなくてはならないのだと僕は思う。そこには人が人につながろうという感情があるからだ。もちろん、それは(この小説においては、と書いておこう)予め叶わないのだが…
 「きみが彼女の妄想人格という訳か」
 「逆だよ」
  医師は何故か悲しげな表情になった。
(309ページ上段)
この「悲しげな表情」の訳が感じられれば、それでいいのじゃないかという気もする。知的な小説です。