日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

昔から雑誌が好きだ。雑誌と呼ばれるメディアが好きだ。本を読むことが、その作者と対話することなら、雑誌を読むことは、その「街」を散歩することといえるかも知れない。
今まで好きだった雑誌をあげろと云われれば「Rockin' On」「日本版 Wired」「宝島30」の三誌になるが、定期購読はしなかったものの、それぞれに思い出深い雑誌というのがいくつかある。その中でも北の植民地に住まう田舎者の高校生にとってある時期輝きを放っていたのが「ぴあ」だ。
情報雑誌の嚆矢である「ぴあ」は、その頃の僕にとってはどの雑誌よりも想像力をかき立てた。渋谷では今どんな映画が上映されているのか、文学座アトリエ公演ではどんな作品が上演されているのか、中野サンプラザホールではどんな外タレが来日公演しているのか…それは「東京」という、ここから千キロ以上も離れた永遠と言わんばかりの遠国に具体性を与える重要なアイテムだった。
そんな「ぴあ」がらみの雑誌と本を、最近読んだ。
■書籍「一九七二」(坪内祐三著・文芸春秋刊・本体1,800円)
坪内が自らの体験と、当時の雑誌や本からの情報をフル稼働して、1972年に起こった出来事を描くことで、この時代の空気をまるごと描こうとした野心作。その時まだ少年だった坪内の心象が、時代のどんな要請によって描かれたのかを、メディアを飾った言葉を通して解析していく様は、ある種の知的快感を呼び起こす。それは共時的に取り上げられた出来事や事件が、ひとつの言葉=「歴史」として結晶していくという快感だ。歴史といえば近・現代史に興味をかき立てられる小生には楽しめる一冊でした。
■雑誌「Monthly Culture Journal "Invitation"」
正直この雑誌を見て驚いた。なんたって「ぴあから新しいカルチャー・ジャーナル誌」なのである。あの批評性皆無と云われた情報誌「ぴあ」が満を持して出す(だと思う、だってあの「ぴあ」なんだぜ…と思ったら専用の Web サイトはない模様。なーんだ)「ジャーナル誌」→批評誌なのだから。
紙面をざっと見た限りで感じられるのは、紙面の絶妙な「ダサさ」である。例えて云えば「an-an」に比べて「non-no」が「ダサい」という意味において「ダサい」。文化の先端を扱うようでいながら実はあんまり尖ってない。だからそれだけ読者の間口が他誌に比べて広いといえる。という訳であまりスノッブ臭は強くないのだがない訳ではないので、そこらへんの配合がこれからの課題と云ったところでしょうか。わたしはこういう雑誌、わりと好きです。