…まぁ、そうだわなぁ
そもそものはじまりは、おいらの場合「ARTIFACT −人工事実−」の「孤独なWeb日記 」という文章だったんですが、その記事の元々のネタ(文章)は、風野春樹氏の「新サイコドクターあばれ旅」の「読冊日記 2003年5月下旬」の次の一文のようです(一部略してます)。
すでに話題が旬を過ぎた今になってこんなことを言うのもどうかと思うのだが、どうもウェブログというやつには馴染めない。(略)
ウェブログはコミュニケーションを重視する。盛んに他人の記事を引用するし、たいがいコメントエリアがついている。明快で活発なコミュニケーション。実にわかりやすい。(略)しかし、日本型のウェブ日記の世界には、かつてからもっと別種のコミュニケーションがあったのではないか。
(略)日々誰に向けているのでもないテキストを淡々と書き、そしてどこかにそれを読んでくれる読み手がいる、ということに心を癒され、直接感想メールが来たりすると、かすかな苛立ちを感じずにはいられないような、そんな「コミュニケーション」。
それは、アメリカ人からすればコミュニケーションの名にすら値しないようなものなのかもしれないのだけど、「それはどこか宇宙の果ての知らない星からの長距離電話」(谷山浩子「銀河通信」)であり、「誰でもない他者」からの「あなたがここにいること」への承認のメッセージなのだ。だからこそ、誰が読んでいるかはわからないけれど、「もしもし見知らぬ私の友達 私はちゃんと歩いています」(同上)と日記を書くのである。細い、細い糸で結ばれたような儚いコミュニケーション。そもそもウェブ日記にとってもっとも重要だったのは、そうしたコミュニケーションだったように思うのである。
続いて「ARTIFACT −人工事実−」に引用されていたのが、おいらとおなじはてなダイアリーを使っている「松谷加平の生活と意見」の「ブログ」 という記事。
「それを言っちゃあ」的なことを書けば、風野氏のページは、かなりの数の人に読まれているわけだし、谷山浩子だって、それなりのリスナーがいるはずで、だからこそ「長距離電話」だってかかってくるわけで、本物の[「暗闇」と「孤独」と「沈黙」]には何のコンタクトもないってことになると思うんだよなあ。
でもって大変ですよ、そもそもの「読冊日記 2003年5月下旬」の文章「孤独なWeb日記」から単を発した各サイトの反応がすでにこれだけ挙がってますよ姉さん(笑)! Weblog でも Web日記でも 私サイトでも、それらを運営している皆さんがどんなに淋しい気持ちでいるのかがこの素早い反応から如実に伺えます♪ いやわかるんだけどねー、ちょっと笑っちゃう。
風野氏(確かにこのサイトはおいらも知ってた)の云う違和感はわからんでもないですけどね。「誰が読んでいるかはわからないけれど、『もしもし見知らぬ私の友達 私はちゃんと歩いています』(同上)と日記を書く」という行為は、おっしゃるとおり「コミュニケーション」とは云えない(書いてる側の「癒し」にはなるだろうけど確かに)とおいらも思うけれど、だからって対抗上そのかすかな「コミュニケーション」を称揚するのもまた如何なものかと。
どんな文章でも書く側には“読者”が生まれているはずで、それは誰も読むことのない普通の日記でも同じだと思うのだけど、Web日記というのは、その幻の読者を理論的に保証する、「もしかしたら、誰かがこれを読んでいるかも知れない」と思うことが書くことのモチベーションとなる、そんなある種画期的なシステムの体験だったと思うんだよね。理論的に読者が保証されてるが故に、安心して好き勝手に誰かに向けて語ってる気分になれる訳だ(だから匿名性が重要なポイントになる)。そのせいで「発信してる」という意識のない言葉があふれ返って、「おいおいそんな生々しい事まで書かなくたっていいよ」って文章なんかも目にしたりする事になっちゃう。
かたや blog の方は「そもそもウェッブ上に文章を出す事自体が不特定多数への相手への発信なんだ」という当たり前の認識の上に生まれている。具体的な(でも見えない)相手をしっかり想定している。で、そーいう事はいわゆる「メディア」(=新聞雑誌ラヂオテレビ)という権力を持つ側の特権だったんだけど、この blog というシステムは、何の権力もない個人でも「誰もがメディアをもてるんだ」という、そもそもインターネット自体が持っていた“メディアに関するヒエラルキーの崩壊”をさらに推し進め得た、という点で画期的だったと思うんですよ。その意味において「草の根ジャーナリズム(発信と返信のコミュニケート)」を指向していると思うんだよね。
じゃあ実際に日本で見られる blog ってどうなのかっていうと「ネットのニュースにコメント入れてるだけの Web日記」って感じだったりするから(そりゃそうだよ、なかなかオリジナルなニュースソースになんてないし、オリジナル性を感じさせるコメントなんて、それなりの技術がやっぱり必要だもの)、長年 Web日記書いてる側から最近の blog を見ると「blog とか何とか云ってるけど、結局それって今までの Web日記と変わんないじゃない?」って違和感につながると思うんだよね。少なくともおいらはそう思うけど。
あんまり人のこと言えない話ですが、Web日記だろうが blog だろうが「んな話どーでもいいよ、わざわざ web 上に出すなよ」ってーのはもう掃いて捨てるほどあって(笑)、というか大体自分の言葉なんて誰かにとっては別に存在しなくっても全然かまわない訳だし、そういう認識の上で自分なりに遊んでますがね“ヒロクロ”は。
こう考えてみると、おいらが“ヒロクロ”でやってる事って、Web日記とか blog というより“ミニ FM 局のDJ番組”って感じだなぁ……流しっぱなしって感じで(笑)。もちろん読んだ反応があれば嬉しいし、だからその嬉しさを味わいたくて、これからも色々策を弄したりしていく所存でおりますが(笑)。でもまあ結局、ひとり遊びには違いないよな。
今回の「孤独なWeb日記」祭り(笑)は、こーいう blog とか Web日記とかの、実際に読まれているかどうか漠としている(だからコメント書いてって云ってるじゃない♪)サイト管理者(おいらも含む)が、そのものずばりな「孤独なWeb日記 」というタイトルに見事に反応してしまったという事になりますな♪