日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

気持ち良いBGM、大橋トリオ

 先週旭川へ行ったんですね。玉光堂旭川店で贖ったのが大橋トリオの新譜「A BIRD」。

A BIRD

A BIRD

 アマゾンでは絶賛のようですね。確かにアコースティックな手ざわりのする音で、聞いてて気持ち良いです。誰の音に似ているんだろう。何というか70年代初期のアメリカ西海岸のスタジオ・ミュージシャンで、片手間にシンガーソングライターもやってます的なアーティストのピアノ・サウンドって感じかしら。全然違うか。地味といえば地味な佇まいの曲が多いけれど、日本人でこういう曲をあまり聴いたことがなかった気がする。
 正直なところ、自分にとって彼の音楽がわたしに必要な音なのか、その評価は保留中なのだけど。ただ、スピーカーを前にして居住まいを正して聴くというより、ひとりでいる部屋で、こうして背景に流していたい、今のわたしにはそんな音楽です。
 この、シングルカットされた"A BIRD"は良いですね。サビのところなんかちょっと素敵です。どうぞ。

「新世紀ヱヴァンゲリオン・破」を観てきた

 映像に圧倒されたまま2時間近く引っ張り回されたという感じでした。まあ映像のクオリティが高い高い、ギミックも満載だし。見終わった後には何度も何度も「参った」「畜生」と悪態をついていたというのは、わたしにとってはかなり大絶賛なんですね。いや本当に参った。思い出したらまた口から悪態がこぼれ落ちそうだ。
 色々書きたいことはあるのだけれど、文章に出来るほどまとまってはいないんです。思いつくままに書いてみると…
 例えば、旧作ではほとんど描かれていなかった、第三新東京市の市民、ネルフ以外の“普通の人々”の映像が前回の序(特にヤシマ作戦のシーン)と同様に丹念に描かれているところが良かったですね。
 あと映画の後半、シンジが綾波を救い出そうとする刹那、綾波が「わたしのかわりは他にいるから」というあの台詞を吐き、観ている側を「ああこれで三人目の綾波が生まれてしまうのか」と思ったところ、シンジがそれを否定して彼女を救い出すんですね。旧作のノリだったら、もうシンジはここで綾波に手を伸ばせなくなるだろうけど、ちゃんと救い出してくれた。このシーンには涙腺がゆるんで仕方がなかった。
 個人はただ個人だけで「かけがえのない自分」というのを想定出来ない。それはあらゆる人々、それは身近な人ばかりでなく、自分の知らない他者も含めた関係の中でこそ「かけがえのない自分」は想定されるはずなんですね。*1シンジが綾波を救い出すことで、綾波が(そしてシンジも)「かけがえのない自分」になり得たと思えて、わたしなんかもう号泣な訳ですよええ。
 この「かけがえのない自分」問題は実に根深い話で、通常宗教が取り扱ってきた(そして「解答」を出し続けてきた)ものだとは思うのだけど、もちろん芸術も常にこの問題に立ち向かって来た訳で、個人的には宗教によらず哲学として走り切ってほしいと思っています。


「ヱヴァンゲリオンはガンダムにならないでほしい」というのがわたしの願いなんですね。「この序破Q+1でエヴァは終りにしてほしい」という。今回のプロジェクトは、旧作エヴァの“落とし前をつける”以外の何物でも無いと思っている訳ですよ。ぶれながらもとりあえず走り切った旧作のヱヴァンゲリオンでこの「世界」を否定し切った庵野監督が、このプロジェクトによってどうやって新たに「世界」を肯定するか、それはきっととても辛い作業だと思うのだけど、すでにもう走り出した以上、完走しきってほしい。そして、新しい「世界」へ向けてヱヴァンゲリオンを卒業してほしいと思うのです。
 この願いは、別にシンジをはじめ出演者の誰もがハッピーになって終る、というストーリーを期待している、という意味ではないんです(いやそれでもいいんだけど)。そうではなくて、仮に彼らの行く末が不幸に終るものだったとしても、それでも彼らの「生」は肯定されてしかるべきだ、ということなんですね。


 LIFEの特別配信でもこの映画を取り上げていたけれど、個人的には稲葉振一郎の発言が一番良かった。

*1:だから旧作の「魂」を入れ替えることで綾波が何回も生き返る→あたかも「魂」こそが自らを「かけがえのない自分」を証明する何らかの<物体>なのだ、というストーリー設定は否定されるべきなのだと思う訳です。