日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

いま父と母は

 仕事に就いてはじめて、お盆の週に夏の有給休暇をとった。有給休暇は昨日からはじまって、晩には中学校の同窓会があり楽しく過ごした。相変わらず、どうしても輪の中には入れないけれど、それはそれで構わない。
 同じように輪の中に入らずに、カウンターでずっとカラオケを歌っている同級生がいた。そのKとわたしは、酒井法子の薬物事件のことから人間の弱さについて話をした。中学の頃にはまともに話したことのない相手だった。本当は彼女とわたしは、それぞれに自分の弱さについての話をしたのだったが。
 その二次会のあと会はばらけて、わたしは旧友のSと別の店で軽く飲んだあと、同窓会幹事のWと飲むためにロックバーで彼を待った。深夜2時近くになって、彼はひとりで店に入ってきた。社交的には見えなかった中学生時代のWが、まさかハードロック、ヘビメタファンだったとは思わなかった。常連客だという彼が店に入ると、ディープ・パープル、ホワイト・スネーク、レインボーが流れた。わたしは彼を待つ間、ドアーズとザ・バンドを所望した。


 1時間ほどWと飲んだ後に帰宅し、午後近くまで寝続けた。長い休みのはじまりは、何もなくても、こんな風に眠り続けてしまう。
 いま父と母は、NHK-BSのルノアールの特集番組を見ている。
 それはいわば「終わった芸術」である。言い方を変えれば、評価の定まった芸術である。そこには今を息づくアートなどない。わたしはそういう番組をナチュラルに見るような、そんな環境の中で育った。何というかそれは、非常にプチブル的な環境だったともいえるだろう。そんな家庭は、わたしの家庭の他には見つけられなかった。それはちょっと残念だったけれど、今さら何を言っても仕方がない。


 芸術はたぶん、そんな環境からは生まれて来ないのだろう。いつかロックも芸術に成り果てるだろう(いやもうなっているのかしら)。それでもわたしに何か出来ることはあるのだろうか。
 個人の狂気を見い出すフィルタリングシステム:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan