日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

「ストリーム」は終ったけれど

 自他共に認めるラジオ好きのhirofmixですが、最近はもっぱらpodcastばかりiPodにぶち込んで聞いていおります。そんな俺にとって常にトップを飾る番組といえば、第1回の放送から聞いている「文化系トークラジオLife」である(全部保存してあります)。そして、Life同様に楽しみに聞いていたのがTBSラジオの午後の帯番「ストリーム」だったのだが、三月の突然の終了はとても辛かった。メインパーソナリティの小西克哉が番組終了を伝えた時には「たぶんネタだろう」と素直に思った。それだけこの番組の放送終了が想像出来なかったのだ。
 この「ストリーム」のメインコンテンツに「コラムの花道」とコーナーがあって、放送後にpodcastで配信されていたのだが、月曜・吉田豪、火曜・町山智浩、水曜・勝谷誠彦、木曜・辛酸なめ子という「サブカル布陣」はかなり聞き応えがあった。特に月曜・火曜が素晴しかったね。勝谷は時々その“とってつけたような”右翼な振る舞いが鼻について嫌だったのだが(まるでサヨクのように鼻についた)、言っていることは正しい場合もあるんだけど。
 まあそれはともかく、分をわきまえた御局ぶりが好評だったマッピーこと松本とも子と「ゲストの話を聞いているようでほとんど聞いてない」中年おやじ小西克哉トークが冴え渡った「ストリーム」だっただけに、その終了後に始まった小島慶子「キラ☆キラ」には、番組開始当初から元ストリームリスナーからの毀誉褒貶が激しかった。
 俺も「キラ☆キラ」については小島慶子嬢同様(かどうかはともかく)不安なまま、最初の週からのpodcast登録を躊躇った。あれだけの豪華布陣を揃え、放送コードにひっかからなくても放送代理店批判など色々物議を醸しただろうトークを昼間から流していた「ストリーム」の後番組である。新しいリスナーを開拓したといっていい「ストリーム」の後番組という不安と期待を、いくら才女の誉れ高い(何たってあの「アクセス」初代パーソナリティにしてギャラクシー賞受賞局アナなのだ)小島慶子ひとりで担うのはあまりにも荷の重い話であった。おまけに番組タイトルもイマイチだったし。


「キラ☆キラ」放送開始の頃の小島慶子は、日替わりのサブパーソナリティ(後述)のトークにどう対応したら良いのかを計りながら、自身がどの立ち位置に立ってトークを展開すれば良いか、かなり戸惑いながら進めていた気がする。そのせいで会話に微妙な空気が生まれる回もあった。しかし、さすがは小島である。最近の放送は「おい小島お前どうなんだおいやりすぎじゃないのか」というぐらいはち切れてしゃべれているようだ。小島自身のパーソナルな生活の様子(お子さんがどう育つかやや不安ではある)や「興味のあること以外はまったく興味を示さない」「経験しててもほとんど憶えていないし反省していない」局アナとしてはかなりのダメっぷりなどをあけすけに話すのも厭わないその“さらけ出しぶり”は聞いててかなり面白い。俺自身も当初の不安を乗り越え、ダウンロードが楽しみになってきている。


「ストリーム」の目玉のひとつは間違いなく先に書いた「コラムの花道」だったのだが、メインパーソナリティの小西克哉が日ごとのコラムニストより年長なせいもあってか、いわゆる“サブカル”と称されるコラムニストたちをかなり上手くあしらっていた。そのあしらい方がいかにも「おやじスタンス」で、いくらそのネタが面白くても“俺とお前(=サブカル陣営)は立ち位置違うよ”という線引きが態度に表れていて、その態度が逆に“サブ”であることをくっきりと浮かび上がらせていた。だからこそコラムニストの話が際立って面白かったのだと思う。
 そもそも「サブカル」という言葉は非常に80年代的用語で、そもそも「サブカル」という言葉が出始めた頃は、例えばアニメ好きマンガ好きのサブカル人間でも「やっぱり大宰ぐらい読んでおかないと駄目だよな…」と思わせる程度には、純文学やクラシック、映画といった「メイン」が形骸化していたとはいえまだ概念として存在していた、そんな時代の言葉なのだ。
 その「メイン」が消滅したといっていい現代であれば「サブ」もまたその意味合いを異にする。そういうメイン不在・サブ不在の状況において「ストリーム」での小西の「あしらい方」が幻にサブとメインを浮かび上がらせたからこそ、コラムニストのネタが冴え、かりそめに「メイン」を担った小西とのトークが輝いたのではないか、そう考えるのである。


 さて現代に戻って「キラ☆キラ」の小島慶子の場合、どちらかといえば「サブカル陣営」と同じ、もしくは年下の年齢である。であるから、そのまま小西の方法は使えない。日替わりのサブパーソナリティーである月曜・ビビる大木、火曜・神足裕司、水曜・ライムスター宇多丸、木曜・ピエール瀧、金曜・水道橋博士、ある意味「ストリーム」以上にサブカル色を強くしたこれら強者達に対して小島は、何というか「同級生感覚」といえばいいのか、まあ男女で同い年なら女の方がやや年上的になるだろうが、そこいらへんの態度物言いも含めての「同級生感覚」で、かなり身内感の強いトークを展開している。
 ただ身内感が強いといってもベッタリしていない。そこいらへんの距離感は「クラスの仲の好い友達」って感じで、あくまで「クラス(=番組)」という範囲での、という限定がついている気がするのだ。その限定的なところがいい。特にピエール瀧水道橋博士とのトークはかなりイケる。逆に小島より歳の離れた神足裕司とのトークがイマイチ乗り切れないのは、その「同級生感覚」が上手く機能していないせいかも知れない。加えて神足は言葉のそこかしこにインテリ臭を出そうとしている御様子でいただけない。いつ小島慶子が年長の神足相手に「このハゲのオジサンはまったく…」とフランクな物言いをして神足を軽く怒らせてくれるかが今後の楽しみである。*1


 実はここ1〜2週間ほど、オープニングトークで小島の「ラジオに対する思い」のあふれるしゃべりが続いたのだが、小島はその言葉を語ることで「キラ☆キラ」での自らの立ち位置を宣言したのじゃないか、と俺は思っている。特に宇多丸を相手に話した以下の言葉(正確ではないのだが)は、今の時代、リスナーにラジオがどう応えていくべきかを語っていて、かなり好感を持った。

  • いまの時代は消費的な情報が多すぎて、人もその会話もあらかじめ消費されやすいようにしていないといけない、みたいな圧力がある(会話にオチを求める、笑いを求める)。それっておかしいじゃないか?
  • ラジオは、聞いている人が裸のままで、無防備でいても良いメディアだと思う。
  • ラジオとインターネットによって、そういう裸のままでリスナー同士と番組とがつながりあえるんじゃないか。これからラジオはもっと必要になる。

 ラジオぐらい聴く側に負荷をかけずに楽しめて(=いわゆる「ながら視聴」が出来る。テレビは見ないとならないから、何かをし「ながら」視聴することがあまり出来ない)、しかも聞く側にパーソナルに「語りかける」メディアはない。
 何かをしながら聞いている時、例えば皿を洗ったり部屋掃除をしたりしている時を想像してほしいのだが、そちらの行為に集中している分、ラジオからのメッセージに対して無防備=心が裸だったりする。そんな時、声という個性とともに発せられた言葉が、かけがえのない思いとして無防備な心に響く。そして、リスナーがラジオに耳を傾ける(=主体的に聞くことを選択する)時、一方通行であるはずのラジオというメディアが、リスナーとパーソナリティとの間に親密な空気を醸成する。そしてそこには「キラ☆キラ」が生放送であるという要因も大きな意味を持ってくるだろう。同じ時間をわかちあっていることが、両者の間に「今・ここ」という共有感をより強く生み出すだろうから。
 産休で休まれていた小島慶子の復活を、いわんやラジオへの復活を待ち望んでいたファンは俺を含め少なくはない。出来るなら小島には、ラジオを主戦場にして、これからも頑張ってほしい。
 という訳なので、ぜひ皆さんも「キラ☆キラ」を聞いて下さいませ。リンク先はこちら

*1:あと木曜のブックレビュアーの岡野宏文もやはりインテリ臭を出そうとしているようでちょっと困る。俺は岡野が編集長だった頃の「新劇」を一番読んでいたから、個人的にはぜひ岡野に頑張ってほしいと思っているのだが。もうちょっと岡野の持ち味であろう“小心者風情”“太鼓持ち風情”が会話からにじみ出ると、小島の突っ込みも冴え渡って素敵なんだが