日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

神田神保町

 2019年(令和元年)5月19日 日曜日。54にして初めて、神田神保町を二時間近く歩いた。東京に来てはじめて、好きになれそうな街だった。そのことを少し、地下鉄神保町駅そばのドトール2階喫煙室で書きはじめる。

 朝10時はまだ古書店はどこも開いていない。最初に新刊書店の書泉グランデを覗く。
 店内は広くない。エレベーター横の館内説明を読むと「鉄道」「ミリタリー」など、一見してマニア臭のする項目が並んでいる。1階の狭い店内にはポップがあふれていて「店員が選んだラノベコーナー」などもある。全体的に若い人向け、マニアに特化している書店のようだ。
 正面玄関を出てショーウィンドウを見る。イベント予定のポスターが貼ってあり、ほぼグラビア系アイドル。三省堂書店東京堂書店という本流の書店との差別化を図っているのだろう。

 続いて、三省堂書店神保町本店の店内を軽く散策する。
 書泉グランデの2倍ほどの売り場スペースだが、広いという程ではない。1階には人文系書籍の特設コーナーが並び、それだけで心が躍る。
 すずらん通り側の入口側にショップがあり、訪問記念に、珈琲用に使う、銀の錫製のカップを贖う。
 ちくま学芸文庫の新刊「増補版普通の人々」を買うべく2階文芸コーナーに行く。

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))

 1階を含め書棚はそれほど多くはないが、その品揃えには感服した。限られたスペースに(限られたスペースだからこそか)、書店員がしっかり本を選んで並べているような印象を強く受けた。こういう経験は、今までいくつかの書店を見た中で、生まれて一度も体験したことがなかった。今まで行ったことのある札幌の今はなき旭屋書店、今は札幌駅そばの紀伊國屋書店、随分昔に行った東京の八重洲ブックセンター、そして北見のコーチャンフォー、今はなき福村書店でも、こんな体験をしたことはなかった(こちらの年齢によるものだろうが)。本当に感服させられた。

 限られた書棚に並ぶ、選ばれた本たち。その印象は、三省堂書店よりスペースの狭い、東京堂書店神田神保町店でも同様だった。
 カフェコーナーのある1階は、それだけで文化に興味を持つ若い人向けという印象を受ける。ダークブラウンを基調にした落ち着いた店内に、書店員の選んだ特設コーナーが用意されている。こちらもほぼ人文撃の書籍だ。三階の文芸コーナーへ向かう。
 今回は神保町初訪問の記念に、藤井貞和の詩「雪、Nobody」が記された詩集を購おうと決めていたのだが、東京堂書店三階の詩集の棚にもなかった。書籍は、三省堂書店よりやや充実している。その書棚から「春楡の木」という詩集を選んだ。

春楡の木

春楡の木

 エレベーターで階下へ降りようとした時に、作家の直筆サインコーナーが目に入った。さすがに藤井貞和の詩集はなかったが、小谷野敦の本があって、買うかどうか迷ったのだが、読めるかどうかわからないので、諦める。

 古書店の半分近くが、11時を超えても閉店していた。多くの古書店が、文化を仕事にする人たちに向けて営業しているのかも知れない。戯曲、シナリオ専門らしき矢口書店という店があり、別役實かつかこうへいの本を買おうとしたが、ほしいものはなかった。この店は戯曲よりも映画関係の本が充実しているようだ。たぶん端役が使ったのだろう、映画の台本が多く売られていて驚かされる。
 映画コーナーに、小林信彦の本が10冊ほど並べられていた。「東京のドンキホーテ」があり、ちょっと迷ったが、買わずに店を出た。

 日曜日とはいえ混みあってはいない古書店街を歩いていると、岩波ホールが目に入ってきた。入口に入って今年1年の上映作品を見て、またしびれた。文芸臭漂う海外の作品が目白押しである。ちょうどこの日は、観たいと思っていた「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を上映していた。3時間近くの上映時間と知り、さすがに観るのは諦める。「間もなく開演いたします」という女性の声にも心を惹かれた。

 三省堂書店東京堂書店、どちらにも文化の匂いがあった。この体験も生まれて初めてだった。本ならもうネットで買えるなら十分、なんて自分が今までなーんにも知らなかったことを痛感させられた。書店の中を数時間過ごすだけで、文化の匂いを胸いっぱいに吸い込むことが出来る気がした。
 もちろんこの匂いは、神田神保町という街が醸し出す匂いのひとつだ。

 北海道という「植民地」に生まれ育ったわたしにとって、東京ははじめて来た時から、ひとつの「街」として把握することが不可能な、巨大で、人混みにあふれた都市だった。意識の高みに立って一望することなど不可能な、様々な「街」が雑踏と道路と路線でつながれた場所。そんな風に、頭の中に東京の地図を描けないことが、いつも僕を落ち着かない気持ちにさせ続けた。
 長年暮らしたことのある札幌も、二度ほど訪ねた京都も、頭の中に地図が浮かび、ぼんやりと街を“ひとつかみ”できる印象を持てるから、例えば札幌や京都の知らない場所も来ても、疎外感を受けることはほとんどない。けれども東京はどこにいても、自分と無関係の場所としか思えない。わたしと東京は消費活動でしかつながることが出来ない。
 巨大すぎる東京という土地を、自分と一切無関係な人たちがあふれている。そんな一人ひとりにも交換できない人生の物語があり、自意識を抱え、生活という首輪をつけられ、自分一人にしか理解できない場所へと流れていく。これほどたくさんの人がいるのに、誰とも出会うことが出来ない、という当たり前のことを強要させられる場所。街にいるものが等しく体験するだろう固有の匂いを、東京にいるわたしは、いつまでも共有することがなかった。そのことが、わたしをどこまでも孤独にさせる。
 そんな孤独をはじめて感じさせなかったのが、この本の街・神田神保町だった。本を介してわたしをつなぎとめる街。また訪ねたいと思わせる、東京でははじめての街だった。

 家に帰ったら、谷川俊太郎の「神田賛歌」を読もうと思う。