日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

雨はむずかしい

 雨が降っている。

 今朝は午前五時すぎに起きた。前日の初夏のような暑さが夜になっても室内に居残り、すぐに眠りつくことができなかった。寝る時に聞いていたドラマCDの科白が、思い出したくない夢のように、浅い眠りの合間に聞こえてきた。そうして、強い雨音とともに目を覚ました。
 朝の散歩は出来ないかな、と思いながら階下へ降り、顔を洗い髭を剃り終えた。今日で四日続けて午前五時台に起きている。早朝に起きる習慣を身につけようとしているのだが、二度寝した日もあった。それでもとりあえず、今日も五時台に起きることが出来た。
 傘をさせば歩けるじゃないか、と思い直して父親の傘を手にして玄関に出ると、雨は止んでいた。ついさっきまでそこにいたんです、と言い訳するように、時おり水たまりの上に波紋が浮かび、すぐさま消えた。暑くもなく、寒くもない、歩くには絶好の曇天。
 運動にもならないほどの距離を歩いてセブンイレブンに着き、ホットコーヒーと無糖紅茶を買う。そして、来た道とは少しだけ別の道を気まぐれに選び、実家へ戻る。来た時には農作業だろうと思っていたのは、町内会の清掃作業だった。六十代と思しき男たちが、歩道を箒で掃いたり、草刈機で雑草を刈り取っている。
 歩道を掃いている男性の前を通る時に挨拶をする。挨拶し返した顔に見覚えがあったが、もちろん、名前など思い出せない。
 しばらくして、歩道橋が近づいてきた。もちろん、登ってみる。三十年近く昔の、学生時代以来だ。眼下を見渡しても、感慨も湧かない。
 ただの曇天。ただの日曜早朝。ただの俺。
 気づかぬほどの雨粒が思い出したように道路に落ちる。入りの悪いクラシックコンサートの終演後のようだった。
 それでも朝の散歩としては悪くない気分で実家に着いた。二階の部屋に戻り、まだ暖かいコーヒーを飲む。そして、雨のことを思う。
 前日の暑さを思うと、雨の到来は心良いものだった。早朝の朝は車の音もなく、騒がしいテレビの音もない。屋根に落ちる雨の音は静かで、どんなピアノ曲よりも心穏やかにしてくれる。今なら、日頃見落としていたことたちを、思い出してやることが出来るかもしれない。それは書くまでもなく、思い出されることもない日々の事柄だが、確かにあったのだ、と。
 第二幕を告げるベルなどなく、唐突に雨は強く降りはじめた。雨音は感傷的なメロディーをかなぐりすて、最初からそうだったじゃない? とでも言うように屋根を無機質に連打し続けた。どんな想念も情感もなく、雨は雨という事実としてのみ存在した。

 雨のことを思う。屋根を強打する現実の雨の音が耳に届く中で、雨のことを思う。確かに手にしていたものを、今も失い続けている。いや、手にしてなどいなかったのかも知れない。手にしていなければ、失うこともない。それが俺の生きる日々なのか。
 そんなこちらの思いなどおかまいなしに、また雨は小降りになる。隣の部屋で泣きべそをかく子どものような雨だ。ただの雨。ただの日曜。ただの俺。お気に入りの結末などない。