日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

また、雑木林のことを思う


 今朝になって、また雑木林のことを思い起こした。もう雪も降ってしまったこの町だけど、想像する雑木林はいつもその一歩手前の晩秋だ。
 はじめて雑木林に憧れに近い感情を抱くようになったのは、たぶん村上春樹の小説『羊をめぐる冒険』の、有名な「水曜日のピクニック」の一節だろう。

 その年の秋から翌年の春にかけて、週に一度、火曜日の夜に彼女は三鷹のはずれにある僕のアパートを訪れるようになった。彼女は僕の作る簡単な料理を食べ、灰皿をいっぱいにし、FENのロック番組を大音量で聴きながらセックスをした。水曜日の朝に目覚めると雑木林を散歩しながらICUのキャンパスまで歩き、食堂に寄って昼食を食べた。そして午後にはラウンジで薄いコーヒーを飲み、天気が良ければキャンパスの芝生に寝転んで空を見上げた。
 水曜日のピクニック、と彼女は呼んだ。

 一九七〇年十一月二十五日のあの奇妙な午後を、僕は今でもはっきりと覚えている。強い雨に叩き落とされた銀杏の葉が、雑木林にはさまれた小径を干上がった川のように黄色く染めていた。僕と彼女はコートのポケットに両手をつっこんだまま、そんな道をぐるぐると歩きまわった。落ち葉を踏む二人の靴音と鋭い鳥の声の他は何もなかった。

 読みながらその懐かしく、しん、とした静寂が胸にしみて、自分もいつかICUまでの雑木林を歩いたような気持ちにさえなっていた。実際に木立の中で遊んだ記憶が、村上春樹の描写によって呼び起こされ、雑木林を特別な場所に仕立て上げたのだろう。

 家を建てたいと思った事がほとんどない。オーディオに手を出す前は、本当にこれっぽっちも想像した事がなかった。だいたい、家を維持管理することなど、どう考えても自分の手に余る(自分の部屋ひとつ満足にキレイに出来ないのに)。仮に家を建てるとなると当然借金、という事になるだろうが、そんな莫大な借金で残り少ないサラリーマン人生をこれ以上灰色にしたくはない。もう真っ黒じゃないかそれじゃあ。
 それでも自分が建てる家を想像した時に、いつもその周囲は、雑木林に囲まれている。雑木林に囲まれた、一人暮らし用の小さな家。暖房は薪ストーブだったりする訳だが、あまりに現実を直視しない想像を妄想という。想像と妄想の区別ぐらいは出来るので、家の想像は想像のまま小洒落た雑誌なんかにまかせておいて、気持ちは雑木林の方へ傾斜していく。

 この町から紋別へ行く時、丁度右手側に見える畑の中に、ぽつんと雑木林が見える。行ってみたいなあ…と思うのだけど、まだ果たしていない。仮にも人の土地だろうから、その雑木林に入っても、あまり安心できないような気がするからだ。訪ねる事も出来ないまま、もうすぐこの町での何度目かの冬が来る。
 雑木林の中を歩いて、鳥の声なんかに耳をすましてみたい。その静寂の中に身をおいて、風の音を感じたい。草の上を歩く音、枯葉を踏む音を味わいながら、おだやかな静寂を感じとりたい。田舎にいるくせに、ひどく忙しない生き方をしているのは、いったいどうした訳だ。

 日常と非日常の境界の間に、2Bの鉛筆で囲みを描いて、そこを雑木林とする。

(「雑木林」より)

 これは2006年に書いた文章である(最近の文章より出来が良い気がして悲しい)。雑木林についての思いはこの時から何も変わっていない。ささやかな憧れさえ叶えることもままならず、またこうして冬が来た。