日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

内田樹の二冊の本

 おはよう。この前は食事につきあってくれてありがとう。メールにも書いたけど、最近やっと本を読むことが出来たよ。ここしばらくはどの本を読んでも気が散ってね、読み続けられなかったんだけど、今回は大丈夫だったみたい。

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

 奥付を見るともう2年前の本だったんだね、ちょっと思いがけなかった。うん、面白かったよ。読んでいて色々なことが思いうかんでね。読んでいる途中から「ああこの感じって「私家版・ユダヤ文化論」に似てる気がする」と思ってたら、途中で「起源からの遅れ」って言葉が出てきて「ああ、やっぱりつながってたんだ」ってね。
私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

 この「起源からの遅れ」ってターム(術語)は「私家版・ユダヤ文化論」でも重要なモチーフだったからね。ちょっと長いけど引用しようか。

 自分の存在の起源について人間は語ることができません。空間がどこから始まり、終わるのか、時間がどこで始まり、終わるのか。私たちがその中で生き死にしている制度は、言語も、親族も、交換も、貨幣も、欲望も、その起源を私たちは知りません。私たちはすでにルールが決められ、すでにゲームが始まっている競技場に、後から、プレイヤーとして加わっています。私たちはそのゲームのルールを、ゲームすることを通じて学ぶしかない。ゲームのルールがわかるまで忍耐づよく待つしかない。そういう仕方で人間はこの世界にかかわっている。それが人間は本態的にその世界に対して遅れているということです。それが「ヨブ記」の、広くはユダヤ教の教えです。(中略)
 日本人はこういう考え方にあまり抵抗がない。現実にそうだから。それが私たちの実感だから。ゲームに遅れて参加してきたので、どうしてこんなゲームをしなくちゃいけないのか、何のための、何を選別し、何を実現するためのゲームなのか、どうもいまひとつ意味がわからないのだけれど、とにかくやるしかない。
 これが近代化以降の日本人の基本的マインドです。そして、このマインドは、ある部分までは近代史の状況的与件に強いられたものですけれど、日本列島住民が古代からゆっくりと形成してきた心性・霊性にも根の先端が届いている。私はそうでないかと思います。
「日本辺境論」124P〜126P

 この「起源からの遅れ」っていうのは、個人史的にもかなりしっくりするけどね。この「私たちはすでにルールが決められ、すでにゲームが始まっている競技場に、後から、プレイヤーとして加わっています」「私たちはそのゲームのルールを、ゲームすることを通じて学ぶしかない」って感覚は。たぶん俺が一人っ子だったからだろうね、最初から仲間の輪にいるのではなくてその中に入らなくてはならない。その怯えが「起源からの遅れ」に反応するんだろうね。
 内田樹って人はファンも多いけどアンチもそれなりに多いと聞いていたから(どこで耳にしたのだろう)、ネットでちゃらっと調べてみたのだけど、トップに出てくるのはほとんど印象論なんで、まあ印象論でもいいのだけど食いごたえがなかったな。後でもうちょっと調べてみようと思うよ。あと保守系やまぁネトウヨっていうかね、まあざっくり右側の人にも評判が悪いね。