日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

「ギャル演歌問題」について如何に

ギャル演歌の世界へようこそ « SOUL for SALE
 最近の文化系トークラジオLifeはちっとも「文化系」じゃない「社会学系」じゃないか、と謀らずも喝破したのは3月の「ライブメディアの現在」の回に出演した濱野智史だったが(この人のトーク、面白かったわ。いずれ「アーキテクチャの生態系」読んでみたい)、じゃあどんなんが「文化系」なのよぉ? といえばこの「ギャル演歌」など恰好の「文化系トーク」ネタであると思うが如何か。勿論何にでも「問題」をつけるのが流儀故これもまた「ギャル演歌問題」と名付けちゃう訳だ俺は勝手に。狭い部室で2時間のみ有効性のある「問題」である。
 まずチャーリーこと鈴木謙介は“ギャルっぽい歌”として「内向的でうじうじしていて、依存心が強く、本当は男に引っ張ってほしいけど、でもそれが叶わないからがんばって一人で生きるんだってパターン」と設定してそれを「いわば『ギャル演歌』とでも呼ぶべき歌」と言い表す。その発言から伺えるのは、それらの曲よりも曲を巡る構造自体を愛でている弱高踏的な態度である。そこんところが非常に「狭い部室で2時間のみ有効性のある」ネタを持ち出すのにふさわしい。わたしもこういう態度物言いは大好きだ。勿論この言説には若輩者らしい非礼な分析的視線が含まれているのだが、ことさらに楽曲自体と自分との距離感をあぶり出すような身振りを彼は表さない。それ故に彼は「このエントリで僕が示してみたいのは、むしろそんな『ギャル演歌』とでも呼ぶべき曲たちをざっくり並べてみることで、その世界観に浸ってみようよということだったりする。批評は、したい人がすればいい」と宣言する。
 何の話をしているんだが、わかるだろうか。いやわからなくていいんだけど。
 という微妙に閉じた感のある排他的空気は確かに文化系トークラジオLifeと俺の底流にあるだろうと邪推する。だからこそ黒幕は常に「敗北を抱きしめ」ざるを得ないしチャーリーは部室に集う後輩(リスナー)に対しては「希望の話をしよう」と宣うことになる。微温的空間でのオープンな論理=ダイアログ=会話。青空の見える部室の窓は常に開けなければならない、いずれ後輩達が巣立つために。
…本当に一体何の話なんだこれ。話し相手を選ぶのもまた底流にあるとして。