日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

いまふと思い出した一節

 ユダヤ人は「すでに名指され」「すでに呼びかけられたもの」という資格において(レヴィナスの術語を借りていえば「始原の遅れ」を引きずって)はじめて歴史に登場する。
 そのつどすでに遅れて登場するもの。
 この規定がユダヤ人の本質をおそらくはどのような言葉よりも正確に言い当てている。そして、この「始原の遅れ」の覚知こそ、ユダヤ的知性の(というより端的に知性そのものの)起源にあるものなのだ。
内田樹「私家版・ユダヤ文化論」より(文春新書・213ページ)

 この本を読んでからずっとこの「始原の遅れ」という言葉が描こうとする世界が気になっているんです。といってレヴィナスを読めるほど読書力があるとも思えないので、まだ考えはぼんやりしたままです。誰でも気がついた時には寄る辺ない気持ちにさせられたのではないか、と思うのだけど、自分が生まれる前から世界がすでに存在していたこと、どうやらそれは途方もない時間の果てまで遡れることに、軽い、ごく軽いおののきを感知した人は、少なくないのじゃないでしょうか。だから人は誰もが「遅れて」存在するのである……面白いな。